籬《まがき》が結われてあり、そこいら一めんに見知らない夏草が茂っていたが、そんな中にぽつりぽつり竜胆《りんどう》がもう大かた花も散ったまま立ちまじっているのが佗《わ》びしげに私の目に止まった。
湯などに入ってそれから御堂にと思っているところへ、里の方から人が駈けつけて来たようなけはいであった。留守居の者の文を急いで持ってきたのだった。読んで見ると、私の出かけた跡にすぐ殿からお使いの者が見えて私を引き止めるようにと云いつかって参った由、留守居の者が私の出立《しゅったつ》の模様やそれから日頃の有様などを精《くわ》しく話して聞かせると、その男までつい貰い泣きをし、「ともかくもその事を殿に早くお知らせ申しましょう」と急いで帰った由、――やがてそちらへ殿が御自身で御迎えに往かれる事になりそうですからその御用意をなさいませなどと細々と書いてきた。あれほど此処へ来ている事をあの方にはお知らせしないようにと固く言い置いてきたものを、あの人達ったら何んの考えもなしに、その事ばかりでなく、おまけに有ること無いことまで大げさに話して聞かせたのだろう。ああ、何だか物々しい事になってしまいそうな、――と思いながら、ともかくもそうなったらそれまでと、湯の事を急がせて、御堂に上った。
暑かったので、しばらく戸を押しあけて眺めやっていたが、此処は丁度山ぶところのようなところになっていると見える。周囲にはすっかり小さな山々が繞《めぐ》っていて、それらが数知れぬような木々に覆われているらしいけれど、生憎《あいにく》月がないので、殆ど何も見わけられない……
そうやって戸を押しあけたまま、御堂で初夜《しょや》を行っているうちに、何時なのだろうかしら、時の貝を四つ吹くほどになった。そのとき急に大門の方に人どよめきがし出したので、巻き上げていた簾《みす》を下ろさせて透して見ていると、木の間から灯がちらちらと見えてくる。やっぱりあの方は入らしったのだ。
門のところまで、道綱は急いで御迎えに出て往ったらしかった。やがて戻ってきて、あの方が車にお立ちになったままで「御迎えにやって来たのだが、生憎きょうまで穢《けが》れがあるので、車から下りられない。何処かに車を寄せる所はないか」と仰《おっし》ゃっていると取り次いだが、私はそれには全然とり合わずに、「何をお考えちがいなすって、そんな向う見ずな御歩きをなさいます。今宵だけでもと思ってわたくしは此処へ参っているのです。もう夜も更けておりましょう。早くお帰りなさいませ」と返事をさせた。それからそんな文の往復を何度となく為合《しあ》った。一丁ほどの石段を上ったり下りたりしなければならないので、それを取り次いでいた道綱は、しまいには疲れ果てて、ひどく苦しそうな位にまでなった。その上、殿が、これ位の事がとりなせないのか、腑甲斐ない奴だな、などと大へん御気色が悪いと言って、いかにも切ながっていた。それを見ていた側の者たちはしきりに不便《ふびん》がっていたが、私は何処までも自分を守り通して拒絶したので、あの方もとうとう「よしよし、おれは穢れがあるからこのままこうしても居られない、車をかけてくれ」と[#「と」は底本では「とと」]仰ゃってそのまま御帰りなさるらしかった。私が覚えずほっとした気もちでいると、思いがけず、道綱までが、「まろもお送りして往きます。お車の後《しり》へでも乗せて往っていただきましょう。そうしてもう二度とまろもこちらへは参りませんから」と言い残したぎり、泣き顔をして出て往ってしまった。どんな事になったってこの子だけは自分のものだと思っていたのに、まあ、この子まで、何んて酷《むご》いことを言うのだろうと呆れながら、私はもう物も言えずにいた。が、しばらくして、皆がもう出て往ってしまっただろうと思える時分になって、ひょっくりと道綱だけが戻ってきた。そうして「お送りいたそうとしましたら、殿がお前はこちらで呼ぶとき来ればいいと仰せになりました」と言うなり、もう溜《たま》らなくなったように、そこに泣き崩れていた。本当にどういうお気もちなのだか自分にもわからなかったが、「いくらあの方だってお前までをこの儘《まま》になさりなどするものですか」と言いすかしながら、さまざまに道綱を慰めているうちに、いつか時は八つになっていた。こんな夜更けてからのお帰りを皆はお案じしながら、「路も大へん遠いのに、御供の人々も居合せたものだけしかお連れなウらなかったと見え、京の内の御歩きよりも人少なだったようでしたけれど――」などと言い合っていたが、私だけは無言のまま、強いてつれないような様子を見せていた。
しかし夜の明けかかる時分、道綱がゆうべの事をしきりに気にしては「御門のところからでも御機嫌伺いをして参りましょうか」と言いつづけているので、少しいじら
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