こうして長らえているのだけれど――」と言い出した。「どうしたら好いのだろうね。尼にでもなったら一番好いのかしら。この世に居なくなってしまうよりか、そうでもして生きていたら、お前にしたってお母あ様の事が気にかかればすぐ会いにも来られるし、それでいてあとはもうこの世に居ないものだと諦めてもいられるでしょう。――そうやって尼になったって、お前のお父う様さえ本当に頼りになるのなら、お前の事は少しも心配は入らないのに、それがどうにももどかしいような気がするので、こうやって物思いばかりしているのだけれど……」と、ひとりごとのように言い続けているうちに、ふとこんな言葉が、かわいそうに、此の子をどんなに苦しめているのだろうと気がついて、私は突然言うのを止めた。思ったとおり、道綱はもう返事もできない位、私の背後でやっと泣くのを堪えているらしかった。

 五日ばかりで身が浄《きよ》まったので、また私は御堂に上った。ずっと来ていて下すった伯母もその日お帰りになって往かれた。その車がだんだん木の陰になりながら見えなくなって往くのをじっと見送って佇《たたず》んでいるうちに、逆上でもしたのだろうか、私は急に気もちが悪くなってひどく苦しいので、山籠《やまごも》りしていた禅師《ぜじ》などを呼びにやって加持して貰った。夕ぐれになる頃、そんな人達が念誦《ねんじゅ》しながら加持してくれているのを、ああ溜《た》まらないと思って聞き入りながら、年少の折、よもやこんな事が自分の身に起ろうなどとは夢にも思わなかったので、そうなったならどんなだろうなどと半ば恐いもの見たさに丁度このような場合を想像に描いて見たことがあったが、いまその時の想像に描いたすべての事が一つも違わずに身に覚えられて来るようなので、何だか物《もの》の怪《け》でも憑《つ》いて、それが自分にこんな思いをさせているのではないかとさえ私は思わずにいられない位だった。

 それほど、まるで何かに憑かれでもしたかのように、私が苦しみながら山に籠っているのを、京では人々が思い思いにああも言いこうも言っているようだし、のみならず、この頃では自分が尼になったというような噂までし出して居るらしかったけれど、私は何を言われようとも構わずにいた。それが善いにせよ、悪いにせよ、こう云うような私をそっくりそのまま受け入れてくれるのは父ばかりだと思えたが、この頃は京にいらっしゃらないので、田舎の方へすぐ便りを出して置いたところ、このほどその父から「そうして居るのも好いと思う。なるべく目立たぬように、暫くでもそうやってお勤をしている分には、気も安まるだろうから」などと書いておよこしになった。父にだって今の私の苦しい気もちは殆ど御わかりになって居そうにも見えないながら、それなりにもそう父のように仰《おっし》ゃって下さるのが一番私には頼りになるのだ。それにしても、私がこうして居るところをこの間御覧なすって帰られたぎり、まだ一度も御消息さえおよこしにならないなんて、まあ、あの方は一体私がどんなになったならば、私の事をもお顧みになって下さるのだろうか。そう思うにつけ、私はこれよりももっと深く山に入るような事があろうたって、どうして里へなんぞ下りるものかと、ますます思いつめて往く一方だった。

 或朝、道綱に無理に「魚でも召し上って入らっしゃい」と言いつけて、京へ立たせてやった。が夕方近くなって、もうあの子も帰ってくるだろうと思っていた時分、俄《にわ》かに空が暗くなり、つめたい風が吹きはじめたかと思うと、あたりの木々の葉がさあっと無気味にざわめき出した。悪いときに夕立になったなと思う間もなく、すぐもうそこで雷がごぼごぼと物凄いような音を立て出した。――途中でこんな夕立に出逢って、まあ、どんな思いをしているだろうと道綱の上を気づかいながら、几帳《きちょう》のかげに小さくなって、私はじっと息をつめていた。おりおり山のずうっと彼方に雷の落ちるらしいのが、そんなに怯《おび》えた心には、すぐ目のあたりに落ちたのかと思われる位だった。――そんな中でもってさえ、私はいつの間にか、いっそこの儘《まま》こうして自分が死にでもしたら、せめてはそんな痛ましい最後がおりおりあの方に自分の事を思い出させ、そのお心を充たしてくれるかも知れない――などと考え出していたが、しかし私はこうしているだけでさえ怖くて怖くて、顔も上げられずに、いつまでも腑伏《うつぶ》したきりになっていた。
 やがてあたりが薄明くなり出したのに気がついて、私ははっと何かから醒《さ》めたような気もちになりながら、そんなちょっとの間だけ、殆ど忘れ去っていた道綱の事を前よりも一層気にし出していた。それからほどなく、道綱は心もち蒼い顔をしたまま、無事に帰ってきた。「夕立が来そうでしたので、いそいで帰って参りま
前へ 次へ
全17ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング