お出《いで》になったかと思うと、又すぐお帰りになって往かれた。大かた私たちが心細がっているだろうとさえもお思いにはならないものと見える。いつも云いわけがましく「この頃は為事《しごと》が多いので――」などと仰ゃっては入らっしゃるけれど、まあちょっとでもこれに目をお留めなすったら、この数知れぬほどな蓬《よもぎ》よりもまさかお為事が多いとは仰ゃれまいにと、私はわが家の荒れ放題になった庭をいまさらのように見やっては、少し自嘲的な気持にもなって、それがますます荒れ果てるがままに任せておいた位だった。
そんな私に向って、「まだお若い身空ですのに、どうしてそのようにばかりして入らっしゃるのですか」と気づかっては、熱心に再婚などを勧めてくれる人もあった。それだのに、あの方はまたあの方で、「おれの何処が気に入らないのだ」と云った顔つきをなすって、少しも悪びれずにいらっしゃるので、本当にどうしていいのやら、私は思いあぐねるばかりだった。何んとかしてこの胸に余る思いをつぶさにこの人にも分からせようがものはないかと思えば思うほど、私はあの方に向っては一ことも物を言うことが出来ずにしまうのだった。
「今のようにときどき思い出されたように入らっしゃるよりか、いっその事もうすっかりお絶えになって下すった方がどんなに好いか知れやしない」などとまで私はその日頃考え出していたものだった。又意地の悪い事にはそんな時にかぎってあの方がひょっくりお見えになったりする。「どうして私のところへなぞ入らしったのですか」と云った顔をしたぎり、私が何も言わずにいるものだから、あの方も何だかひどく工合悪そうにしていらっしゃる。まあ、折角こうしてお出になっていられるのだから、こうばかりしていてもと、つい弱気になろうとする自分を、私は一生懸命に抑えつけて、あの方がいかにも物足らなそうにお帰りになるがままにさせている。……
そんな事ばかり繰り返しているうちに、とうとう或日などはあの方もすっかり気を悪くされたと見え、つと端《はし》の方へ歩み出されてから、幼い道綱をお呼び出しになって何か耳打ちをなすっていらしったが、そのままいつにない怨《うら》み顔《がお》をなされて出て往かれてしまった。あの子ははいって来るなり、私の前でしくしく泣いている。「どうしたの」と尋ねて見ても返事もせずにいた。あの方にきっとおれはもう来ないぞ、とでも言われたのだろうと思って、それ以上尋ねるのは止めて、いろいろ慰《なだ》めたり賺《すか》したりしていたが、それから何日たっても、あの方からは音信《おとずれ》さえもなかった。「まさかと思っていたのに、本当にこのままお絶えなさる気なのかしらん」と不安そうに思いながら、それでもまだそれを半ば疑うような気もちで暮らしていると、或日の事、こないだあの方の出て往かれる時に鬢《びん》をお洗いになった※[#「さんずい+甘」、第3水準1−86−60]坏《ゆするつき》の水がそっくりそのままになっているのにふと気がついた。よく見ると、その水の上にはもう一面に塵《ちり》が溜《た》まっていた。「まあ、こんなになるまで――」と私は胸をしめつけられるような心もちで、それに何時までもじっと見入っていた。――そんな事さえも、その日頃にはとかく有りがちなのであった。
そういう一方に、あの坊《まち》の小路の女のところでは子供が生れるとか言って大騒ぎをしていたらしかったが、その頃からどう云うものか、あの方はあんまりその女のもとへはお出《いで》にならなくなったとか云う噂だった。その女の事を憎い憎いと思いつめていた時分に「いつまでも死なせずに置いて私の苦しみをそっくりそのまま味わせてやりたいものだ」と思っていた通りに、すべての事がなって往きそうだった上、その生れたばかりの子供までが突然死んだと聞いた時には、「まあ何んていい気味だろう。急にそんなになってしまわれて、どんな心もちがしているかしら。私の苦しみよりかいま少し余計に苦しんでいる事だろう」などと考えて、本当に私は胸のうちがすっぱりとした位だった。――こんな人らしくもない心の中まで此処に書きつけるのは、ちょっとためらわれもしたけれど、こう云うところに反って生き生きとした人の心の姿が現われているかとも思えるので、この私と云うものをすっかり分って貰うためには、やはりそう云うものまで何もかも私はこの日記につけて置きたいのである。
さて、そんな事のうちに数年と云うものは空しく過ぎ去ってしまったが、そう、何でも五月の二つあった或年の事である。その閏《うるう》五月には雨が殆ど絶え間もなしに降り続いていた。そうしてその月末から、どうしたのか、私は何処と云うこともなしに苦しくって溜《た》まらなかった。もうどうなったって好いと思っている自分の事ではあるし、そんな命をさ
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