じ》めなさるのだった。
 その事がいつか姉のもとに来て入らしったいまひと方の御耳にもはいったと見え、「私もゆうべはわざと余所《よそ》で過して来ました。花があるので好んでこちらへ来ただけなのだろうなどと言われそうでしたから」などと、そのお方までがしたり顔にそんな事を言ってよこされた小憎らしさ。

 それからまだ二た月とは立たないうちに、私はいつのまにやら只一人で起き臥しする事の多いような身の上になりながら、姉の方へばかり絶えずいまひと方が出這入《ではい》りなすっていられるのを、胸のしめつけられるような気もちで見て暮していたところ、五月になると、そのお方さえも、まるでそう云う私をお避けなさりでもするかのように、余所へ私の姉をお連れして往ってしまった。それからは私はほんとうの一人ぎりになってしまったのだった。――が、こう云うはかない身の上になったのは、私ばかりではなく、私なんぞよりもずっと前からあの方がお通いになって、お子様などもたんとおありなさると云うお方のもとへも、この頃は全くあの方は絶えられているとお聞きして、ましてどんなにお心細い事だろうかと、おりおり消息などをさし上げては自分でもわずかに気を紛《まぎ》らわせようとしていた。が、おとなしそうなそのお方は、なぜか知ら(或は私だけが別して人の苦しみというものを過当に見るようなところがあるのだろうかしら)、いつも私の相手になるのをお避けになるような素気《すげ》ない御返事しかおよこしにならなかった。誰もかもみんなそういう私をお避けになったと見える。

 そのうちに六月になった。月初めからずっと長雨《ながさめ》が続き、此頃はとりわけてあの方もお見えにならなかった。
 これまでだったらこんなことは無かったのに、どうしたのか、私はまるで心が空虚《うつろ》になって、そこいらに置いてあるものさえ静かに見られない癖がついてしまっていた。「こんな風にしてあの方は私とお絶えなさるおつもりなのかしら。そうだとすれば、何かあの方の事を自分に思い出させてくれるようなものは残っていないかしら」なんぞと、そんな事まで考え出しながら、あの方がこうしてお離《か》れになればなるほど、あの方に対してついぞいままで覚えのなかった位にお慕わしさのつのって来るような自分をば、自分でどうしようもなくていた。すると十日ばかり立って、あの方から珍らしく御消息のあったのを読んでいると、何くれとお書きになって、最後に「帳《とばり》の柱に結わえて置いた小弓の矢を取ってくれ」と言われるので、まあ、あの方のこんなものが残っていたのにと、やっと気がつき、それを取り下ろして持たせてやるような、悔やしい事さえもあった。
 そんな風に、あの方がますます私からお離《か》れがちになっていられる間も、私の家は丁度あの方が内裏《うち》から御退出になる道すじにあたっていたので、夜更けなどに屡《しばしば》あの方が私の家の前をお通りすぎなさるらしいのが、折から秋の長い夜々のこととて、ともすれば私は目覚めがちなものだから、いくら聞くまいと思っていても、手にとるように耳にはいってくる事がある。そんな時などには「何とかしてあれだけは聞かずにいたいものだが――」と思いながら、しかもその一方では、いましがた私の家の前をつづけさまに咳《しわぶき》をなさりながらお通りすぎになったあの方が、だんだんその咳と共に遠のいて往かれるのを、何処までも追うようにして、私は我知らず耳を側立《そばだ》てているのだった。……

   その二

 それから十年ばかりと云うもの、私の父はずっと受領《ずりょう》として遠近《おちこち》の国々へお下りになっていた。たまさかに京へお上りになっても、四五条のほとりにお住いになるので、一条のほとりにあった私の家とは大へん離れていた。それで、こうやって私たちが人少なに住んでいた家は、誰も取《と》り繕《つくろ》ってくれるような者なんぞ居なかったので、次第次第に荒れまさって来るのを、私はただぼんやりと眺めながら、漸《ようや》く成長して来る道綱一人を頼みにして、その日その日をはかなげに暮しているばかりだった。
 そのうちにやっとその幼い道綱が片言まじりに物が言えるようになって来たが、それも、いつ聞き覚えたのか、あの方がいつもお帰りの時に、「そのうちに又――」などと仰《おっし》ゃって出て往かれるのを、「又ね……又ね……」などと口真似をして歩きまわったりしているのだった。――そのようなわが子のあどけない姿を見て覚えずほほ笑まされながらも、どうしてまあこうも自分はこんな幼な子の無心の振舞の中にすら、それに写る自分の悲しみをしか見出せないのだろうと歎かずにはいられないのだった。
 こういう私たちの日頃の有様を御覧になっても、あの方は一向|無頓著《むとんじゃく》そうに、たまに
前へ 次へ
全17ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング