も惜しがってでもいるようにあの方に見られたくはないと思って、私は痩《や》せ我慢《がまん》をしていたが、側の者たちがいろいろと気づかって、しきりに芥子焼《からしやき》なんぞという護摩《ごま》なども試みさせるのだけれど、一向その効力はないのだった。――そうやって私がひどく苦しみ続けている間も、あの方は謹慎中だからと言われて一度だって御見舞には来て下さらなかった。何でも新しい御邸《おやしき》をおつくりなさるとかで、そちらへ毎日のようにお出《いで》になるついでに、ちょっとお立寄りになっては、「どうだ」などと車からもお下りなさらずに御言葉だけかけていらっしゃるきりだった。そんなような或物悲しく曇った夕暮に、私がすっかり気力も衰え切っているところへ、そちらからお帰りの途中だといわれて、あの方は蓮の実を一本人に持たせて、「もう暗くなったので寄らないけれど、これは彼処のだから御覧」とことづけて寄こされた。私は只「生きているのかどうかも分かりません程なので――」とだけ返事をやって、そんな蓮の実なんぞは見る気にもなれずに、そのまま苦しそうに臥したきりでいたが、そのような大そうお見事らしい御邸だって、そのうち見せてやろうなどと仰《おっし》ゃって下すってはいるものの、こうやって自分の命のほども分からず、それにまたあの方のお心の中だって少しも分からないしするので、どうせ自分はそれをも見ずにしまう事だろうなどと考え続けていると、その心細い事といったら何んともかとも言いようのない程であった。
そんな工合に何時までたっても同じような容態だったので、名高い僧なども呼んでいろいろと加持を加えさせて見たけれど、一向はかばかしくはならずにいた。そこでしまいには、事によるとこのまま自分もはかなくなってしまうのかも知れない、そうなったって自分の身なぞは露ほども惜しくはないけれど、只あとに一人きり残される道綱がどうなることか知らん、と私は急にそれが気がかりになって、或日、いかにも心もとないあの人だけれど、まあそれでもと、苦しいのを我慢しいしい、脇息《きょうそく》によりかかりながら、やっと筆を手にして、遺書と云うほどのものではないが、ともかくもあの方に道綱の事をくれぐれもお頼みし、それからその端に「他の人には言われないようなおかしな事までいろいろ申し上げましたけれど、どうぞそんな事をもお忘れなさらずにいて下さいませ」などと書き添えていた。がそのうち、知《し》らず識《し》らずの裡《うち》に、あの方に対する自分の気もちがいつもほど苦くはなくなっているのに気がついた。そうしてあの方との事で今の自分に残っているものと云ったら、不思議に心もちのいい、殆ど静かな感じのものばかりであった。恐らく、私の身の極度の衰えがそういう静けさを自分の心に与えていたのでもあろうか。
そうこうしているうちに、六月の末頃からいくぶん物心地がついて来たようで、秋も過ぎ、冬になった時分にはもう大ぶ私も人心地がしてきた。その間に、あの方たちは新築した御邸の方へお移りなって往かれたが、私だけはやはり思ったとおり、この儘《まま》此処にこうしておれば好いと云う事になったらしかった。
が、そうなったらそうなったで、別にどうと云うこともありはしないのに、やっと恢復《かいふく》し出した私はその頃になって反って何だか気もちが落着かずにばかりいたけれど、十一月になってから雪がたいへん降った。そんな雪のふりつづいた頃、どうしたのか、まだ充分に癒《い》え切《き》っていなかったらしい身うちにめっきりと衰えが感ぜられ、世のさまざまな事、ことにあの方の事なぞが言いようもなく辛く思われた一日があった。私はその日は日ぐらしそんな雪を眺めたり、又、いつぞやの殆ど死ぬばかりだったような日々の事だの思い出したりしながら、「ああ、雪なんぞだったら、いくらこんなに積ったって、やがてまた消えて往ってしまえるのだ。それだのに、私は一生のうちにたった一度の死期をも失ってしまったような……」などとさえ悔やみ出していた。……
その三
そのうちに道綱も漸《ようや》く成人して来た。が、その頃の事になると、まだついこの間の事のように何もかも自分に一どきに思い出されてしまうものだから、さてそれを書こうとすると、反って何だか書かずともよいような事までも書いてしまいそうな気がしてならない。……
先ず思い出すのは、これも書かずともよい事かも知れないが、まあ、思い出すがままに書いて見ると、或年の丁度|若苗《わかなえ》の生い立つ頃、――そう、若苗といえば、そんな事のあった数日前、私はあんまり所在がないので草などの手入れをさせていたら、たくさん若苗が生えていたので、それを取り集めて母屋の軒端にそっくり植えさせて水なども気をつけてやらせていたのだった。が、その
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