な明察に達することは容易でないゆえに、我々は同じことを他の仕方で追求することを試みよう。
定理二
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神の存在は単にその観念が我々のうちにあるということから、ア・ポステリオリに証明せられる。
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証明
我々の観念のいかなるものの客観的実在性も、この同じ実在性をば単に客観的にではなく、形相的に、あるいは優越的に、含むところの原因を必要とする(公理五によって)。しかるに我々は神の観念を有する(定義二及び八によって)、そしてこの観念の客観的実在性は形相的にも優越的にも我々のうちに含まれない(公理六によって)、またそれは神そのもののうちにのほか他のいかなるもののうちにも含まれることができない(定義八によって)。ゆえに我々のうちにあるところのこの神の観念は、神を原因として必要とする、従って神は存在する(公理三によって)。
定理三
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神の存在はまたその観念を有するところの我々自身が存在するということからも証明せられる。
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証明
もし私が私自身を維持する力を有するならば、なおさら私はまた私に欠けているところの完全性を私に与える力を有するであろう(公理八及び九によって)。なぜならこれらの完全性は単に実体の属性であり、私はしかるに実体であるから。しかしながら私はこれらの完全性を私に与える力を有しないのである、なぜなら、さもなければ私は既にそれらを有しているであろうから(公理七によって)。ゆえに私は私自身を維持する力を有しない。
次に、私は、私が存在する間は、もし実に私がその力を有するならば、私自身によって、あるいはその力を有する他のものによって、維持せられるのでなければ、存在することができぬ(公理一及び二によつて)。ところで私は存在するが、しかもまさにいま証明せられたように、私自身を維持する力を有しない。ゆえに私は他のものによって椎持せられる。
なおまた、私を維持するものは自己のうちに、私のうちにある一切を形相的に、あるいは優越的に、有する(公理四によって)。しかるに私のうちには私に欠けているところの多くの完全性の知覚と同時に神の観念の知覚が存する(定義二及び八によって)。ゆえにまた私を維持するもののうちにも同じ完全性の知覚が存する。
最後に、この同じものは、自己に欠けているところの完全性の、すなわち自己のうちに形相的にあるいは優越的に有しないところの完全性の、知覚を有し得ない(公理七によって)。なぜなら、既に言われたごとく、このものは私を維持する力を有するからして、なおさらかかる完全性を、もし欠けているならば、自分に与える力を有するであろうから(公理八及び九によって)。しかるにこのものは、いましがた証明せられたように、私に欠けていてただ神のうちに存し得ると私が考えるところのすべての完全性の知覚を有する。ゆえにこのものはそれらの完全性を形相的にあるいは優越的に自己のうちに有し、かくして神である。
系
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神は天と地と及びそのうちに存する一切を創造した。なおまた神は我々が明晰に知覚するあらゆるものを我々がこれを知覚する通りになし得る。
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証明
このすべては前の定理から明晰に帰結する。すなわちこの定理において神の存在することが、我々のうちにその或る観念の有するすべての完全性が形相的にあるいは優越的にそのうちに存するところの或る者が存在しなくてはならぬということから証明せられた。しかるに我々のうちにはあるいとも大きな力の、すなわちただこの力がそのうちに存するところのものによつて、天と地、等々が創造せられ、また私が可能なものとして理解する他のすべてのものもこの同じものによって作られ得るというほど大きな力の観念が存する。ゆえに神の存在と同時にこのすべてがまた神について証明せられたのである。
定理四
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精神と身体とは実在的に区別せられる。
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証明
我々が明晰に知覚するあらゆるものは、神によって、我々がこれを知覚する通りに、作られ得る(前の系によって)。しかるに我々は精神を、言い換えると、思惟する実体をば、物体を離れて、言い換えると、何等かの延長を有する実体を離れて、明晰に知覚する(要請二によって)。また逆に物体をば精神を離れて知覚する(すべての人々が容易に認容するごとく)。ゆえに、少くとも神の力によって、精神は身体なしに存することができ、また身体は精神なしに存することができる。
ところでいま、その一が他を離れて有し得るところの実体
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