ば其説に承服する能《あたは》ざるなり。素《もと》より戯曲には種々の規則あり、罪過を以つて唯一の規則となすは不可なるべしと雖《いへど》も、之《これ》が為めに罪過は不用なりと言ふあらば亦《ま》た大《おほい》に不可なるが如し。何となれば人物は動力(源因)なくして偶然不幸悲惨の境界に陥るものなければなり。歴史家が偶然の出来事は世に存在せずと言ふも是れ吾人と同一の意見に出づるものならん。故《ゆゑ》に吾人は罪過を以ツて重要なる戯曲規則の一に数へんと欲す。
 戯曲は啻《たゞ》に不幸悲惨に終るもののみならず、又素志を全うして幸福嬉楽に終る者もあり。然るにアリストテレスは何が故に只《たゞ》罪過をのみ説いて歓喜戯曲《コムメヂー》の「歓喜に終る源因」に就《つい》て説くことなかりしや。是れ大なる由縁あり。当時|希臘《ギリシヤ》に於ては悲哀戯曲《トラゲヂー》のみを貴重し、トラゲヂーと言へばあらゆる戯曲の別名の如くなりをりて、悲哀戯曲外に戯曲なしと思惟《しゐ》するの傾向ありたり。故にアリストテレスが戯曲論を立つるも専《もつ》ぱら悲哀戯曲に就て言へるなり。若《も》し彼をして歓喜戯曲《コムメヂー》、通常戯曲《シヤウス
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