84−80]ぎ取らうとしたが、片目になつた私の手は見当が狂つた。私は空しく空間を掴んで顫へる自分の手を見た。
退院したYの姿を思ひ出した。水面に落ちた油のやうに、癩を有つた彼は人間社会から遊離させられるであらう。
果してさうであつた。
三日たつてYからの手紙が着いた。
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――牢獄を背負つて歩いてゐるやうなものです。かつて親しかつた人も、病院にゐた頃に同情を示してくれた人もみな敵です。敵は自分の体内にゐるといつた兄のお言葉も正しいが、しかしまた体外にもゐるのです。内も外も、みな敵ばかりです。癩者はボロ靴のやうに療養所といふごみ箱に捨てるのが人類の正しい発展となるのでせう。自分がボロ靴であることを意識しました――
[#ここで字下げ終わり]
眼帯をはづして、私はその手紙を読んだ。充血した眼は、読み終るとジンジンと痛んだ。散歩に出ると、柊の垣の外を覗きながらYの手紙を反芻した。
充血はなかなか散らなかつた。私は終日重い頭で暮した。片目になると太陽の光りまでも半分になつて、昼間でも夕暮の中を歩いてゐるやうな感じが抜けなかつた。私は苛々して眼帯を幾度もむしり取つた。その度に赤くなつた眼は光線に脅《おび》えて涙を垂らした。
私は幾度も鏡の前で瞼をむいて眼球を調べて見た。黒球《たま》の中までも赤くにじんで、ただれてゐるやうに見えた。夜になつて床に就くと、私は眠るのが恐しくなつた。眠つてゐるまにもう見えなくなつてしまつてゐるかも知れないからである。細い糸を引いて天井からぶら下つて来た蜘蛛を、その時私は見つけた。薄暗い部屋の空間で、支へるものもなく揺れてゐる。じつと見てゐて、ぞうつと私の背すぢは冷くなつた。私は空中にぶら下つた縊死体を連想したのだ。私の精神は疲れてゐた。
Yからの通信はその後なかつた。彼のことを思ひ出すと、私の心は曇つた。
私は根気よく眼科へ通つた。ある日、久しく会はなかつたC子に出合つた。彼女は待合室のベンチに盲人達と並んで腰かけてゐた。彼女の眼は両眼とも、私の眼よりも赤くただれてゐた。
「どなた?」
こつこつと彼女の肩を叩くと、彼女は私の方を振向かうともしないで、さう言つた。彼女の眼はもう光りを失つてゐるのであらうか、下を向いた瞼に、ガーゼを当ててじつとしてゐる。
「僕だよ。」
彼女は驚いたやうに貌をあげると、
「まあ。
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