と、とにかく入院しようと決心した。
すべてが普通の病院と様子が異なっていた。受付で尾田が案内を請うと四十くらいの良く肥えた事務員が出て来て、
「君だな、尾田高雄は、ふうむ」
と言って尾田の貌《かお》を上から下から眺め廻すのであった。
「まあ懸命に治療するんだね」
無造作にそう言ってポケットから手帳を取り出し、警察でされるような厳密な身許調査を始めるのだった。そしてトランクの中の書籍の名前まで一つひとつ書き記されると、まだ二十三の尾田は、激しい屈辱を覚えるとともに、全然一般社会と切り離されているこの病院の内部にどんな意外なものが待ち設けているのかと不安でならなかった。それから事務所の横に建っている小さな家へ連れて行かれると、
「ここでしばらく待っていてください」
と言って引きあげてしまった。後になってこの小さな家が外来患者の診察室であると知った時尾田は喫驚《びっくり》したのであったが、そこには別段診察器具が置かれてある訳でもなく、田舎駅の待合室のように、汚れたベンチが一つ置かれてあるきりであった。窓から外を望むと松栗|檜《ひのき》欅《けやき》などが生え繁っており、それらを透して遠くに垣根が眺められた。尾田はしばらく腰を下ろして待っていたが、なんとなくじっとしていられない思いがし、いっそ今の間に逃げ出してしまおうかと幾度も腰を上げてみたりした。そこへ医者がぶらりとやって来ると、尾田に帽子を取らせ、ちょっと顔を覗《のぞ》いて、
「ははあん」
と一つ頷《うなず》くと、もうそれで診察はお終《しま》いだった。もちろん尾田自身でも自ら癩に相違ないとは思っていたのであるが、
「お気の毒だったね」
癩に違いないという意を含めてそう言われた時には、さすがにがっかりして一度に全身の力が抜けて行った。そこへ看護手とも思われる白い上衣をつけた男がやって来ると、
「こちらへ来てください」
と言って先に立って歩き出した。男に従って尾田も歩き出したが、院外にいた時のどことなくニヒリスティクな気持が消えて行くとともに、徐々に地獄の中へでも堕《お》ち込んで行くような恐怖と不安を覚え始めた。生涯取り返しのつかないことをやっているように思われてならないのだった。
「ずいぶん大きな病院ですね」
尾田はだんだん黙っていられない思いがしてきだしてそう訊ねると、
「十万坪」
ぽきっと木の枝を折ったように無愛想な答え方で、男はいっそう歩調を早めて歩くのだった。尾田は取りつく島を失った想いであったが、葉と葉の間に見えがくれする垣根を見ると、
「全治する人もあるのでしょうか」
と知らず識らずの中に哀願的にすらなって来るのを、腹立たしく思いながら、やはり訊《き》かねばおれなかった。
「まあ一生懸命に治療してごらんなさい」
男はそう言ってにやりと笑うだけだった。あるいは好意を示した微笑であったかもしれなかったが、尾田には無気味なものに思われた。
二人が着いた所は、大きな病棟の裏側にある風呂場で、すでに若い看護婦が二人で尾田の来るのを待っていた。耳まで被さってしまうような大きなマスクを彼女らはかけていて、それを見ると同時に尾田は、思わず自分の病気を振り返って情けなさが突き上がって来た。
風呂場は病棟と廊下続きで、獣を思わせる嗄《しわが》れ声やどすどすと歩く足音などが入り乱れて聞こえてきた。尾田がそこへトランクを置くと、彼女らはちらりと尾田の貌を見たが、すぐ視線を外《そ》らして、
「消毒しますから……」
とマスクの中で言った。一人が浴槽の蓋《ふた》を取って片手を浸しながら、
「良いお湯ですわ」
はいれと言うのであろう、そう言ってちらと尾田の方を見た。尾田はあたりを見廻したが、脱衣籠もなく、ただ、片隅に薄汚ない蓙《ござ》が一枚敷かれてあるきりで、
「この上に脱げと言うのですか」
と思わず口まで出かかるのをようやく押えたが、激しく胸が波立って来た。もはやどん底に一歩を踏み込んでいる自分の姿を、尾田は明瞭に心に描いたのであった。この汚れた蓙の上で、全身|虱《しらみ》だらけの乞食《こじき》や、浮浪患者が幾人も着物を脱いだのであろうと考え出すと、この看護婦たちの眼にも、もう自分はそれらの行路病者と同一の姿で映っているに違いないと思われて来て、怒りと悲しみが一度に頭に上るのを感じた。逡巡《しゅんじゅん》したが、しかしもうどうしようもない、半ば自棄《やけ》気味で覚悟を定めると、彼は裸になり、湯ぶねの蓋を取った。
「何か薬品でもはいっているのですか」
片手を湯の中に入れながら、さっきの消毒という言葉がひどく気がかりだったので訊いてみた。
「いいえ、ただのお湯ですわ」
良く響く、明るい声であったが、彼女らの眼は、さすがに気の毒そうに尾田を見ていた。尾田
前へ
次へ
全13ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
北条 民雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング