うよりほかにないのだった。
一時も早く目的地に着いて自分を決定するほかに道はない。尾田はそう考えながら背の高い柊《ひいらぎ》の垣根に沿って歩いて行った。正門まで出るにはこの垣をぐるりと一巡りしなければならなかった。彼はときどき立ち止まって、額を垣に押しつけて院内を覗《のぞ》いた。おそらくは患者たちの手で作られているのであろう、水々しい蔬菜《そさい》類の青葉が眼の届かぬかなたまでも続いていた。患者の住んでいる家はどこに在るのかと注意して見たが、一軒も見当たらなかった。遠くまで続いたその菜園の果てに、森のように深い木立が見え、その木立の中に太い煙突が一本大空に向かって黒煙を吐き出していた。患者の住居もそのあたりにあるのであろう。煙突は一流の工場にでもあるような立派なもので、尾田は、病院にどうしてあんな巨《おお》きな煙突が必要なのか、怪しんだ。あるいは焼き場の煙突かもしれぬと思うと、これから行く先が地獄のように思われて来た。こういう大きな病院のことだから、毎日|夥《おびただ》しい死人があるのであろう、それであんな煙突も必要なのに違いないと思うと、にわかに足の力が抜けて行った。だが歩くに連れて展開して行く院内の風景が、また徐々に彼の気持を明るくして行った。菜園と並んで、四角に区切られた苺畑が見え、その横には模型を見るように整然と組み合わされた葡萄《ぶどう》棚が、梨の棚と向かい合って見事に立体的な調和を示していた。これも患者たちが作っているのであろうか、今まで濁ったような東京に住んでいた彼は、思わず素晴らしいものだと呟《つぶや》いて、これは意想外に院内は平和なのかもしれぬと思った。
道は垣根に沿って一間くらいの幅があり、垣根の反対側の雑木林の若葉が、暗いまでに被《かぶ》さっていた。彼が院内を覗《のぞ》きのぞきしながら、ちょうど梨畑の横まで来た時、おおかたこの近所の百姓とも思われる若い男が二人、こっちへ向いて歩いて来るのが見え出した。彼らは尾田と同じように院内を覗いては何か話し合っていた。尾田は嫌な処で人に会ってしまったと思いながら、ずり上げてあった帽子を再び深く被ると、下を向いて歩き出した。尾田は病気のために片方の眉毛がすっかり薄くなっており、代わりに眉墨が塗ってあった。彼らは近くまで来ると急に話をぱたりとやめ、トランクを提《さ》げた尾田の姿を、好奇心に充ちた眼差しで眺めて通り過ぎた。尾田は黙々と下を向いていたが、彼らの眼差しを明瞭に心に感じ、この近所の者であるなら、こうして入院する患者の姿をもう幾度も見ているに相違ないと思うと、屈辱にも似たものがひしひしと心に迫って来るのだった。
彼らの姿が見えなくなると、尾田はそこへトランクを置いて腰を下ろした。こんな病院へはいらなければ生を完うすることのできぬ惨《みじ》めさに、彼の気持は再び曇った。眼を上げると首を吊《つる》すに適当な枝は幾本でも眼についた。この機会にやらなければいつになってもやれないに違いない、あたりを一わたり眺めて見たが、人の気配はなかった。彼は眸《ひとみ》を鋭く光らせると、にやりと笑って、よし今だと呟いた。急に心が浮きうきして、こんな所で突然やれそうになって来たのを面白く思った。綱はバンドがあれば充分である。心臓の鼓動が高まって来るのを覚えながら、彼は立ち上がってバンドに手を掛けた。その時突然、激しい笑う声が院内から聞こえて来たので、ぎょっとして声の方を見ると、垣の内側を若い女が二人、何か楽しそうに話し合いながら葡萄棚の方へ行くのだった。見られたかな、と思ったが、始めて見る院内の女だったので、急に好奇心が出て来て、急いでトランクを提げると何喰わぬ顔で歩き出した。横目を使って覗いて見ると、二人とも同じ棒縞の筒袖を着、白い前掛が背後から見る尾田の眼にもひらひらと映った。貌形《かおかたち》の見えぬことに、ちょっと失望したが、後ろ姿はなかなか立派なもので、頭髪も黒々と厚いのが無造作に束ねられてあった。無論患者に相違あるまいが、どこ一つとして患者らしい醜悪さがないのを見ると、何故ともなく尾田はほっと安心した。なお熱心に眺めていると、彼女らはずんずん進んで行って、ときどき棚に腕を伸ばし、房々と実ったころのことでも思っているのか、葡萄を採るような手付をしては、顔を見合わせてどっと笑うのだった。やがて葡萄畑を抜けると、彼女らは青々と繁った菜園の中へはいって行ったが、急に一人がさっと駈け出した。後の一人は腰を折って笑い、駈けて行く相手を見ていたが、これもまた後を追ってばたばたと駈け出した。鬼ごっこでもするように二人は、尾田の方へ横貌《よこがお》をちらちら見せながら、小さくなって行くと、やがて煙突の下の深まった木立の中へ消えて行った。尾田はほっと息を抜いて女の消えた一点から眼を外《そ》らす
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