はしゃがん[#「しゃがん」に傍点]でまず手桶に一杯を汲んだが、薄白く濁った湯を見るとまた嫌悪が突き出て来そうなので、彼は眼を閉じ、息をつめて一気にどぼんと飛び込んだ。底の見えない洞穴へでも墜落する思いであった。すると、
 「あのう、消毒室へ送る用意をさせて戴きますから――」
と看護婦の一人が言うと、他の一人はもうトランクを開いて調べ出した。どうとも自由にしてくれ、裸になった尾田は、そう思うよりほかになかった。胸まで来る深い湯の中で彼は眼を閉じ、ひそひそと何か話し合いながらトランクを掻《か》き廻している彼女らの声を聞いているだけだった。絶え間なく病棟から流れて来る雑音が、彼女らの声と入り乱れて、団塊になると、頭の上をくるくる廻った。その時ふと彼は故郷の蜜柑《みかん》の木を思い出した。笠のように枝を厚ぼったく繁らせたその下でよく昼寝をしたことがあったが、その時の印象が、今こうして眼を閉じて物音を聞いている気持と一脈通ずるものがあるのかもしれなかった。また変な時に思い出したものだと思っていると、
 「おあがりになったら、これ、着てください」
と看護婦が言って新しい着物を示した。垣根の外から見た女が着ていたのと同じ棒縞の着物であった。
 小学生にでも着せるような袖の軽い着物を、風呂からあがって着け終わった時には、なんという見窄《みすぼ》らしくも滑稽な姿になったものかと尾田は幾度も首を曲げて自分を見た。
 「それではお荷物消毒室へ送りますから――。お金は拾壱円八十六銭ございました。二、三日の中に金券と換えて差し上げます」
 金券、とは初めて聞いた言葉であったが、おそらくはこの病院のみで定められた特殊な金を使わされるのであろうと尾田はすぐ推察したが、初めて尾田の前に露呈した病院の組織の一端を掴《つか》み取ると同時に、監獄へ行く罪人のような戦慄《せんりつ》を覚えた。だんだん身動きもできなくなるのではあるまいかと不安でならなくなり、親爪をもぎ取られた蟹《かに》のようになって行く自分のみじめさを知った。ただ地面をうろうろと這い廻ってばかりいる蟹を彼は思い浮かべて見るのであった。
 その時廊下の向こうでどっと挙《あ》がる喚声が聞こえて来た。思わず肩を竦《すく》めていると、急にばたばたと駈け出す足音が響いて来た。とたんに風呂場の入口の硝子《ガラス》戸が開くと、腐った梨のような貌《かお》がにゅっと出て来た。尾田はあっと小さく叫んで一歩後ずさり、顔からさっと血の引くのを覚えた。奇怪な貌だった。泥のように色艶が全くなく、ちょっとつつけば膿汁が飛び出すかと思われるほどぶくぶくと脹《ふく》らんで、その上に眉毛が一本も生えていないため怪しくも間の抜けたのっぺら棒であった。駈け出したためか昂奮した息をふうふう吐きながら、黄色く爛《ただ》れた眼でじろじろと尾田を見るのであった。尾田はますます肩を窄《すぼ》めたが、初めてまざまざと見る同病者だったので、恐る恐るではあるが好奇心を動かせながら、幾度も横目で眺めた。どす黒く腐敗した瓜に鬘《かつら》を被せるとこんな首になろうか、顎にも眉にも毛らしいものは見当たらないのに、頭髪だけは黒々と厚味をもったのが、毎日油をつけるのか、櫛《くし》目も正しく左右に分けられていた。顔面とあまり不調和なので、これはひょっとすると狂人かもしれぬと尾田が、無気味なものを覚えつつ注意していると、
 「何を騒いでいたの」
と看護婦が訊《き》いた。
 「ふふふふふ」
と彼はただ気色の悪い笑い方をしていたが、不意にじろりと尾田を見ると、いきなりぴしゃりと硝子戸を閉めて駈けだしてしまった。
 やがてその足音が廊下の果てに消えてしまうと、またこちらへ向かって来るらしい足音がこつこつと聞こえ出した。前のに比べてひどく静かな足音であった。
 「佐柄木さんよ」
 その音で解るのであろう。彼女らは貌を見合わせて頷き合う風であった。
 「ちょっと忙しかったので、遅くなりました」
 佐柄木は静かに硝子戸を開けてはいって来ると、まずそう言った。背の高い男で、片方の眼がばかに美しく光っていた。看護手のように白い上衣をつけていたが、一目で患者だと解るほど、病気は顔面を冒していて、眼も片方は濁っており、そのためか美しい方の眼がひどく不調和な感じを尾田に与えた。
 「当直なの?」
 看護婦が彼の貌を見上げながら訊くと、
 「ああ、そう」
と簡単に応えて、
 「お疲れになったでしょう」
と尾田の方を眺めた。貌形《かおかたち》で年齢の判断は困難だったが、その言葉の中には若々しいものが満ちていて、横柄だと思えるほど自信ありげな物の言いぶりであった。
 「どうでした、お湯熱くなかったですか」
 初めて病院の着物を纏《まと》うた尾田のどことなくちぐはぐな様子を微笑して眺めていた。
 「ち
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