ょうどよかったわね、尾田さん」
 看護婦がそう引き取って尾田を見た。
 「ええ」
 「病室の方、用意できましたの?」
 「ああ、すっかりできました」
と佐柄木が応えると、看護婦は尾田に、
 「この方佐柄木さん、あなたがはいる病室の附添いさんですの。解らないことあったら、この方にお訊きなさいね」
と言って尾田の荷物をぶら提《さ》げ、
 「では佐柄木さん、よろしくお願いしますわ」
と言い残して出て行ってしまった。
 「僕尾田高雄です、よろしく――」
と挨拶すると、
 「ええ、もう前から存じております。事務所の方から通知がありましたものですから」
 そして、
 「まだ大変お軽いようですね、なあに癩病恐れる必要ありませんよ。ははは、ではこちらへいらしてください」
と廊下の方へ歩き出した。

 木立を透して寮舎や病棟の電燈が見えた。もう十時近い時刻であろう。尾田はさっきから松林の中に佇立《ちょりつ》してそれらの灯《ひ》を眺めていた。悲しいのか不安なのか恐ろしいのか、彼自身でも識別できぬ異常な心の状態だった。佐柄木に連れられて初めてはいった重病室の光景がぐるぐると頭の中を廻転して、鼻の潰れた男や口の歪んだ女や骸骨のように目玉のない男などが眼先にちらついてならなかった。自分もやがてはああ成り果てて行くであろう、膿汁《のうじゅう》の悪臭にすっかり鈍くなった頭でそういうことを考えた。半ば信じられない、信じることの恐ろしい思いであった。――膿《うみ》がしみ込んで黄色くなった繃帯《ほうたい》やガーゼが散らばった中で黙々と重病人の世話をしている佐柄木の姿が浮かんで来ると、尾田は首を振って歩き出した。五年間もこの病院で暮らしたと尾田に語った彼は、いったい何を考えて生き続けているのであろう。
 尾田を病室の寝台に就《つ》かせてからも、佐柄木は急がしく室内を行ったり来たりして立ち働いた。手足の不自由なものには繃帯を巻いてやり便をとってやり、食事の世話すらもしてやるのであった。けれどもその様子を静かに眺めていると、彼がそれらを真剣にやって病人たちをいたわっているのではないと察せられるふしが多かった。それかと言ってつらく[#「つらく」に傍点]当たっているとはもちろん思えないのであるが、何となく傲然《ごうぜん》としているように見受けられた。崩れかかった重病者の股間に首を突っ込んで絆創膏《ばんそうこう》を貼っているような時でも、決していやな貌《かお》を見せない彼は、いやな貌になるのを忘れているらしいのであった。初めて見る尾田の眼に異常な姿として映っても、佐柄木にとっては、おそらくは日常事の小さな波の上下であろう。仕事が暇になると尾田の寝室へ来て話すのであったが、彼は決して尾田を慰めようとはしなかった。病院の制度や患者の日常生活について訊くと、静かな調子で説明した。一語も無駄を言うまいと気を配っているような説明の仕方だったが、そのまま文章に移して良いと思われるほど適切な表現で尾田は一つひとつ納得できた。しかし尾田の過去についても病気の具合についても、何一つとして尋ねなかった。また尾田の方から彼の過去を尋ねてみても、彼は笑うばかりで決して語ろうとはしなかった。それでも尾田が、発病するまで学校にいたことを話してからは、急に好意を深めて来たように見えた。
 「今まで話相手が少なくて困っておりました」
と言った佐柄木の貌には明らかによろこびが見え、青年同志としての親しみが自ずと芽生えたのであった。だがそれと同時に、今こうして癩者佐柄木と親しくなって行く自分を思い浮かべると尾田は、いうべからざる嫌悪を覚えた。これではいけないと思いつつ本能的に嫌悪が突き上がって来てならないのであった。
 佐柄木を思い病室を思い浮かべながら、尾田は暗い松林の中を歩き続けた。どこへ行こうという的《あて》がある訳ではなかった。眼をそ向ける場所すらない病室が耐えられなかったから飛び出して来たのだった。
 林を抜けるとすぐ柊の垣にぶつかってしまった。ほとんど無意識的に垣根に縋《すが》ると、力を入れてゆすぶってみた。金を奪われてしまった今はもう逃走することすら許されていないのだった。しかし彼は注意深く垣を乗り越え始めた。どんなことがあってもこの院内から出なければならない。この院内で死んではならないと強く思われたのだった。外に出るとほっと安心し、あたりをいっそう注意しながら雑木林の中へはいって行くと、そろそろと帯を解いた。俺は自殺するのでは決してない。ただ、今死なねばならぬように決定されてしまったのだ、何者が決定したのかそれは知らぬ、がとにかくそうすべて定まってしまったのだと口走るように呟いて、頭上の栗の枝に帯をかけた。風呂場で貰った病院の帯は、繩のようによれよれとなっていて、じっくりと首が締まりそうであっ
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