要《い》らねえ、返《けえ》すから受取っておけ」
 と腹掛のかくしから五十両の金包を取出し、幸兵衛に投付けると額に中《あた》りましたから堪りません、金の角で額が打切《ぶちき》れ、血が流れる痛さに、幸兵衞は益々|怒《おこ》って、突然《いきなり》長二を衝倒《つきたお》して、土足で頭を蹴ましたから、砂埃が眼に入って長二は物を見る事が出来ませんが、余りの口惜《くやし》さに手探りで幸兵衞の足を引捉《ひっとら》えて起上り、
 長「汝《うぬ》ウ蹴やアがッたな、此の義理知らずめ、最《も》う合点《がってん》がならねえ」
 と盲擲《めくらなぐ》りで拳固を振廻すを、幸兵衞は右に避《よ》け左に躱《かわ》し、空《くう》を打たして其の手を捉え捻上《ねじあげ》るを、そうはさせぬと長二は左を働かせて幸兵衛の領頸《えりくび》を掴み、引倒そうとする糞力に幸兵衛は敵《かな》いませんから、挿《さ》して居ります紙入留《かみいれどめ》の短刀を引抜いて切払おうとする白刄《しらは》が長二の眼先へ閃《ひらめ》いたから、長二もぎょッとしましたが、敵手《あいて》が刄物を持って居るのを見ては油断が出来ませんから、幸兵衞にひしと組付いて、両手を働かせないように致しました。

        十九

 長「その刄物は何だ、廿九年|前《めえ》に殺そうと思って打棄《うっちゃ》った己が生きて居ちゃア都合が悪いから、また殺そうとするのか、本当の親の為になる事なら命は惜まねえが、実子と知りながら名告もしねえ手前《てめえ》のような無慈悲な親は親じゃアねえから、命はやられねえ……危ねえ」
 と刄物を※[#「てへん+「宛」で「夕」の右側が「ヒ」」、61−10]取《もぎと》ろうとするを、渡すまいと揉合う危なさを見かねて、お柳は二人に怪我をさせまいと背後《うしろ》へ廻って、長二の領元《えりもと》を掴み引分けんとするを、長二はお柳も己を殺す気か、よくも揃った非道な奴らだと、かッと逆上《のぼ》せて気も顛倒《てんどう》、一生懸命になって幸兵衛が逆手《さかて》に持った刄物の柄《つか》に手をかけて、引奪《ひったく》ろうとするを、幸兵衞が手前へ引く機《はずみ》に刀尖《きっさき》深く我と吾手《わがて》で胸先を刺貫《さしつらぬ》き、アッと叫んで仰向けに倒れる途端に、刄物は長二の手に残り、お柳に領を引かるゝまゝ将棋倒しにお柳と共に転んだのを、肩息ながら幸兵衛は長二がお柳を組伏せて殺すのであろうと思いましたから、這寄って長二の足を引張る、長二は起上りながら幸兵衞を蹴飛《けりと》ばす、後《うしろ》からお柳が組付くを刄物で払う刀尖が小鬢《こびん》を掠《かす》ったので、お柳は驚き悲しい声を振搾《ふりしぼ》って、
 柳「人殺しイ」
 と遁出《にげだ》すのを、もう是までと覚悟を決めて引戻す長二の手元へ、お柳は咬付《かみつ》き、刄物を奪《と》ろうと揉合《もみあ》う中へ、踉《よろめ》きながら幸兵衞が割って入るを、お柳が気遣い、身を楯にかばいながら白刄《しらは》の光をあちらこちらと避《よ》けましたが、とうとうお柳は乳の下を深く突かれて、アッという声に、手負《ておい》ながら幸兵衛は、
 幸「おのれ現在の母を殺したか」
 と一生懸命に組付いて長二の鬢の毛を引掴《ひッつか》みましたが、何を申すも急所の深手、諸行無常と告渡《つげわた》る浅草寺の鐘の音《ね》を冥府《あのよ》へ苞《つと》に敢《あえ》なくも、其の儘息は絶えにけりと、芝居なれば義太夫《ちょぼ》にとって語るところです。さて幸兵衞夫婦は遂に命を落しました。其の翌日、丁度十一月十日の事でございます。回向院前の指物師清兵衛方では急ぎの仕事があって、養子の恒太郎が久次《きゅうじ》留吉《とめきち》などという三四名の職人を相手に、夜延《よなべ》仕事をしておる処へ、慌《あわ》てゝ兼松が駈込んでまいりまして、
 兼「親方は宅《うち》かえ」
 恒「何だ、恟《びっく》りした……兼か久しく来なかッたのう」
 兼「長|兄《あにい》は来《き》やしねえか」
 恒「いゝや」
 兼「はてな」
 恒「何うしたんだ、何《なん》か用か」
 兼「聞いておくんなせえ、私《わっち》がね、六間堀の伯母が塩梅《あんべえ》がわりいので、昨日《きのう》見舞に行って泊って、先刻《さっき》帰《けえ》って見ると家《うち》が貸店《かしだな》になってるのサ、訳が分らねえから大屋さんへ行って聞いてみると、兄《あにい》が今朝早く来て、急に遠方へ行《ゆ》くことが出来たからッて、店賃を払って、家《うち》の道具や夜具蒲団は皆《みん》な兼松に遣ってくれろと云置いて、何処《どっ》かへ行ってしまったのサ、全体《ぜんてえ》何うしたんだろう」

        二十

 恒「そいつは大変《てえへん》だ、あの婆さんは何うした」
 兼「婆さんも居ねえ」
 久「それじゃア長兄と一緒に駈落をしたんだ、彼《あ》の婆さん、なか/\色気があったからなア」
 恒「馬鹿アいうもんじゃアねえ……何《なん》か訳のあることだろうがナア兼……婆さんの宿へ行って様子を聞いて見たか」
 兼「聞きやアしねえが、隣の内儀《おかみ》さんの話に、今朝婆さんが来て、親方が旅に出ると云って暇をくれたから、田舎へ帰《けえ》らなけりゃアならねえと云ったそうだ」
 恒「其様《そん》な事なら第一番《でえいちばん》に此方《こっち》へいう筈だ」
 兼「己も左様《そう》だと思ったから聞きに来たんだ、親方にも断らずに旅に出る筈アねえ」
 留「女房の置去という事アあるが、此奴《こいつ》ア妙だ、兼|手前《てめえ》は長兄に嫌われて置去に遭《あ》ったんだ、おかしいなア」
 兼「冗談じゃアねえ、若《わけ》え親方の前《めえ》だが長兄に限っちゃア道楽で借金があるという訳じゃアなし、此の節ア好《い》い出入場が出来て、仕事が忙がしいので都合も好い訳だのに、夜遁《よにげ》のような事をするとア合点《がってん》がいかねえ……兎も角も親方に会って行こう」
 と奥へ通りました。奥には今年六十七の親方清兵衞が、茶微塵《ちゃみじん》松坂縞《まつざかじま》の広袖《ひろそで》に厚綿《あつわた》の入った八丈木綿の半纒を着て、目鏡《めがね》をかけ、行灯《あんどん》の前で其の頃|鍜冶《かじ》の名人と呼ばれました神田の地蔵橋の國廣《くにひろ》の打った鑿《のみ》と、浅草田圃の吉廣《よしひろ》、深川の田安前《たやすまえ》の政鍜冶《まさかじ》の打った二挺の鉋《かんな》の研上《とぎあ》げたのを検《み》て居ります。年のせいで少し耳は遠くなりましたが、気性の勝った威勢のいゝ爺さんでございます。兼松は長二の出奔《しゅっぽん》を甚《ひど》く案じて、気が急《せ》きますから、奥の障子を明けて突然《いきなり》に、
 兼「親方大変です、何うしたもんでしょう」
 清「えゝ、何だ、仰山な、静かにしろえ」
 兼「だッて親方|私《わっち》の居ねい留守に脱出《ぬけだ》しちまッたんです」
 清「それ見ろ、彼様《あんな》にいうのに打様《うちよう》を覚えねえからだ、中の釘は真直《まっすぐ》に打っても、上の釘一本をあり[#「あり」に傍点]に打ちせえすりゃア留《とめ》の離れる気遣《きづけ》えは無《ね》いというのだ……杉の堅木《かたぎ》か」
 兼「まア堅気《かたぎ》だ、道楽をしねえから」
 清「大きいもんか」
 兼「私《わっち》より少し大きい、たしか今年廿九だから」
 清「何を云うのかさっぱり分らねえ、己《おら》ア道具の事を聞くのだ」
 兼「ムヽ道具ですか道具は悉皆《すっかり》家具《やぐ》蒲団まで私《わっち》にくれて行ったんです」
 清「まだ分らねえ……棚か箱か」
 兼「へい、店《たな》は貸店になっちまッたんです」
 清「何だと菓子棚だ、ウム菓子箪笥のことか、それが何うしたんだと」
 兼「何うしたんか訳が分らねえから聞きに来たんだが、親方へ談《はなし》なしだとねえ」
 清「そりゃア長二が為《す》る事だものを、一々|己《おれ》に相談する事アねえ」
 兼「だッて、それじゃア済まねえ、己《おら》ア其様《そん》な人とア思わなかった……情《なさけ》ねえ人だなア」
 清「手前《てめえ》何か其の仕事の事で長二と喧嘩でもしたのか」
 兼「いゝえ、長《なげ》え間|助《すけ》に行ってるが、喧嘩どころか大きい声をして呼んだ事もねえ……己《おれ》を可愛がって、近所の人が本当の兄弟《きょうでえ》でも彼《あ》アは出来ねえと感心しているくれえだのに、己が六間堀へ行ってる留守に黙って脱出《ぬけだ》したんだから、不思議でならねえ」
 清「何も不思議アねえ、手前《てめえ》の技《うで》が鈍いから脱出したんだ、長二は手前に何も云わねいのか」
 兼「何とも云いませんので」
 清「はてな、彼様《あんな》に親切な長二が教えねえ事アねえ筈だが……何か仔細《しせい》のある事だ」
 と腕組をして暫らく思案をいたし、
 清「些《すこ》し心当りがあるから明日《あした》でも己が尋ねてみよう」
 兼「左様《そう》です、何《なん》か深いわけがあるんです、心当りがあるんなら何も年寄の親方が行くにゃア及びません、私《わっち》が尋ねましょう」
 清「手前《てめえ》じゃア分らねえ、己が聞いてみるから手前今夜|帰《けえ》ったら、長二に明日《あす》仕事の隙《すき》を見て一寸《ちょっと》来てくれろと云ってくんな」
 兼「親方何を云うんです、家《うち》に居もしねえ長兄に来てくれろとア」
 清「何処《どこ》へ行ったんだ」
 兼「何処かへ身を隠したから心配《しんぺい》しているんだ」
 清「何だと、長二が身を隠したと、えゝ、そんなら何故速くそう云わねえんだ」
 兼「先刻《さっき》から云ってるんです」
 清「先刻からの話ア釘の話じゃアねえか」
 兼「道理で訝《おか》しいと思った……困るな、つんぼ………エヽナニあの遠方へ急に旅立をすると、家主の所《とけ》え云置いて、何処へも沙汰なしに居なくなっちまッたんです」
 清「急に旅立をしたと、それにしても己の所《とけ》え何とか云いそうなもんだ、黙って行く所をもって見りゃア、何《なん》か済まねえ事でもしたんだろうが、彼奴《あいつ》に限っちゃア其様《そん》な事アあるめいに」
 と子供の時から丹誠をして教えあげ、名人と呼ばれるまでになって、親方を大切に思う長二の事ですから、清兵衛は養子の恒太郎よりも長二を可愛がりまして、五六日も顔を出しませんと直《すぐ》に案じて、小僧に様子を見せにやるという程でございますから、駈落同様の始末と聞いて清兵衞は顔色の変るまでに心配をいたして居ります。

        二十一

 恒太郎も力と頼む長二の事ですから、心配しながら兼松を呼びに来て見ると、養父が心配の最中でありますから、
 恒「兼、手前《てめえ》……長兄のことを父《とっ》さんに云ったな、云わねえでも宜《い》いに……父さん案じなくっても宜いよ、長二の居る処は直《すぐ》に知れるから」
 清「手前《てめえ》長二の居る処を知ってるのか」
 恒「大概《ていげえ》分ってるから、明日《あした》早く捜しに行こう」
 清「若《わけ》えから何様《どん》な無分別を出すめいもんでもねえから、明日《あす》といわず早いが宜い、兼と一緒に今ッから捜しに行きな」
 と急《せ》き立てる老《おい》の一徹、性急なのは恒太郎もかね/″\知って居りますが、長二の居所《いどこ》が直に分ると申しましたのは、只年寄に心配をさせまいと思っての間に合せでございますから、大きに当惑をいたし、兼松と顔を見合せまして、
 恒「行くのアわけアねえが、今夜はのう兼」
 兼「そうサ、行って帰ると遅くならア親方、明日《あした》起きぬけに行きましょう」
 清「其様《そん》なことを云って、今夜の内に間違《まちげ》えでもあったら何うする」
 兼「大丈夫《でえじょうぶ》だよ」
 清「手前は受合っても、本人が出て来て訳の解らねえうちは、己《おら》ア寝ても眠《ね》られねえから、御苦労だが早く行ってくんねえ」
 と急立《せきた》てられまして、恒太郎は余儀なく親父の心を休めるために
 恒「そんなら兼、行って来よう」
 と立とうと致します時、勝
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