左衛門殿が抱いて帰《けえ》って訳え話したから、おさなさんも魂消て、吉浜の医者どんを呼びにやるやらハア村中の騒ぎになったから、私《わし》が行って見ると、藤屋の客人の子だから、直《すぐ》に帰《けえ》って何処の人だか手掛《てがゝり》イ見付けようと思って客人が預けて行った荷物を開けて見ると、梅醤《うめびしお》の曲物《まげもの》と、油紙《あぶらッかみ》に包んだ孩児の襁褓《しめし》ばかりサ、そんで二人とも棄児《すてご》をしに来たんだと分ったので、直に吉浜から江の浦小田原と手分《てわけ》えして尋ねたが知んねいでしまった、何でも山越しに箱根の方へ遁《ぬ》げたこんだろうと後《あと》で評議イしたことサ、孩児は背中の疵が大《でけ》えに血がえらく出たゞから、所詮助かるめいと医者どんが見放したのを、長左衛門殿夫婦が夜も寝ねいで丹誠して、湯へ入れては疵口を湯でなでゝ看護をしたところが、効験《きゝめ》は恐ろしいもんで、六週《むまわり》も経っただねえ、大《でけ》え穴にはなったが疵口が癒ってしまって、達者になったのだ、寿命のある人は別なもんか、助かるめいと思ったお前《めい》さんが此様《こん》なに大《でか》くなったのにゃア魂消やした」
 兼「ムヽそれじゃア兄いは此の湯河原の温泉のお蔭で助かったのだな」
 長「左様《そう》だ、温泉の効能も効能だがお母や親父の手当が届いたからの事だ、他人の親でせえ其様《そん》なに丹誠してくれるのに、現在《げんぜえ》血を分けた親でいながら、背中へ竹の突通るほど赤坊《あかんぼ》を藪の中《なけ》え投《ほう》り込んで棄《すて》るとア鬼のような心だ」
 と長二は両眼に涙を浮《うか》めまして、
 長「婆さん、そうしてお前《めえ》その児を棄てた夫婦の形《なり》や顔を覚えてるだろう、何様《どん》な夫婦だったえ」
 婆「ハア覚《おべ》えていやすとも、苛《むご》い人だと思ったから忘れねいのさ、男の方は廿五六でもあったかね。商人《あきゅうど》でも職人でも無《ね》い好《い》い男で、女の方は十九か廿歳《はたち》ぐらいで色の白い、髪の毛の真黒《まっくろ》な、眼《まなこ》が細くって口元の可愛《かえい》らしい美《い》い女で、縞縮緬《しまちりめん》の小袖に私《わし》イ見たことの無《ね》い黒《くれ》え革の羽織を着ていたから、何という物だと聞いたら、八幡黒《やわたぐろ》の半纒革だと云ったっけ」
 兼「フム、少し婀娜《あだ》な筋だな、何者だろう」
 長「何者だって其様《そん》な奴に用はねえ、婆さん此の疵は癒っても乳の無《ね》いので困ったろうねえ」
 婆「そうだ、長左衞門|殿《どん》とおさなさんが可愛《かわえ》がって貰い乳《ぢ》イして漸々《よう/\》に育って、其の時名主様をしていた伊藤様へ願って、自分の子にしたがね、名前《なめえ》が知んねいと云ったら、名主様が、お前《めえ》達二人の丹誠で命を助けたのだから二助としろと云わしゃった、何がさて名主様が命名親《なつけおや》だんべい、サア村の者が可愛《かわえ》がるめいことか、外へでも抱いて出ると、手から手渡しで、村境《むらざかい》まで行ってしまう始末さ、私《わし》らも宜《よ》く抱いて守《もり》をしたんだが、今じゃア大《でか》くなってハア抱く事ア出来ねい」
 兼「冗談じゃアねえ、今抱かれてたまるものかナ……そうだが兄い……不思議な婆さんに逢ったので、思いがけねえ事を聞いたなア」
 長「ウム、初めて自分の身の上を知った、道理で此の疵のことをいうとお母が涙ぐんだのだ……兼《かね》……己の外聞《げいぶん》になるから此の事ア決して他《ひと》に云ってくれるなよ」

        十

 長「婆さん、お願いだからお前《めえ》も己のことを此家《こっち》の人達へ内《ねえ》しょにしていてくんなせえ……これは己の少《ちい》さい時守をしてくんなすったお礼だ」
 とまた幾許《いくら》か金を包んで遣りますと、婆さんは大喜びで、
 婆「此様《こんな》に貰っちゃア気の毒だが、お前《めえ》さんも出世イして、斯《こ》んな身分になって私《わし》も嬉しいからお辞儀イせずに戴きやす……私イ益《えき》もねいこんだ、お前さんのことを何で他《ひと》に話すもんかね、気遣《きづけ》えしねいが宜《え》い」
 長「何分頼むよ、お前《めえ》のお蔭で委《くわ》しい事が知れて有難《ありがて》え……ムヽそうだ、婆さん、お前その、長左衛門の先祖の墓のある寺を知ってるか」
 婆「知ってますよ、泉村《いずみむら》の福泉寺《ふくせんじ》様だア」
 長「泉村とア何方《どっち》だ、遠いか」
 婆「なアにハア十二丁べい下《しも》だ、明日《あす》私《わし》が案内しますべいか」
 長「それには及ばねえよ」
 婆「左様《そう》かね、そんなら私《わし》イ下へめえりやすよ、用があったら何時でも呼ばらッしゃい」
 と婆さんが下へ降りて行った後《あと》で、長二は己を棄てた夫婦というは何者であるか、又夫婦喧嘩の様子では、外に旦那という者があるとすれば、此の男と馴合《なれあい》で旦那を取って居たものか、但《たゞ》しは旦那というが本当の亭主で、此の男が奸夫《かんぷ》かも知れず、何《なん》にいたせ尋常の者でない上に、無慈悲千万な奴だと思いますれば、真《まこと》の親でも少しも有難くございません、それに引換え、養い親は命の親でもあるに、死ぬまで拾《ひろい》ッ子ということを知らさず、生《うみ》の子よりも可愛がって養育された大恩の、万分一も返す事の出来なかったのは今さら残念な事だと、既往《こしかた》を懐《おも》いめぐらして欝《ふさ》ぎはじめましたから、兼松が側《はた》から種々《いろ/\》と言い慰めて気を散じさせ、翌日共に泉村の寺を尋ねました。寺は曹洞宗《そうどうしゅう》で、清谷山《せいこくざん》福泉寺と申して境内は手広でございますが、土地の風習で何《いず》れの寺にも境内には墓所《はかしょ》を置きませんで、近所の山へ葬りまして、回向《えこう》の時は坊さんが其の山へ出張《でば》る事ですから、長二も福泉寺の和尚に面会して多分の布施を納め、先祖の過去帳を調べて両親の戒名を書入れて貰い、それより和尚の案内で湯河原村の向山にある先祖の墓に参詣いたしたので、婆さんは喋りませんが、寺の和尚から、藤屋の客は棄児の二助だということが近所へ知れかゝって来ましたから、疵の痛みが癒ったを幸い、十一月の初旬《はじめ》に江戸へ立帰りました。さて長二はお母が貧乏の中で洒《すゝ》ぎ洗濯や針仕事をして養育するのを見かね、少しにても早くお母の手助けになろうと、十歳の時自分からお母に頼んで清兵衛親方の弟子になったのですから、親方から貰う小遣銭《こづかいぜに》はいうまでもなく、駄菓子でも焼薯《やきいも》でもしまって置いて、仕事場の隙《すき》を見て必ずお母のところへ持ってまいりましたから、清兵衞親方も感心して、他の職人より目をかけて可愛がりました。斯様《かよう》に孝心の深い長二でございますから、親の恩の有難いことは知って居りますが、今度湯治場で始めて長左衛門夫婦は養い親であるということを知ったばかりでなく、実《まこと》の親達の無慈悲を聞きましたから、殊更《ことさら》に養い親の恩が有難くなりましたが、両親とも歿《な》い後《のち》は致し方がございませんから、切《せ》めては懇《ねんごろ》に供養でもして恩を返そうと思いまして、両親の墓のある谷中|三崎《さんさき》の天竜院《てんりゅういん》へまいり、和尚に特別の回向を頼み、供養のために丹誠をこらして経机《きょうづくえ》磐台《きんだい》など造って、本堂に納め、両親の命日には、雨風を厭《いと》わず必ず墓まいりをいたしました。

        十一

 斯様な次第でございますから、何となく気分が勝《すぐ》れませんので、諸方から種々《いろ/\》注文がありましても身にしみて仕事を致さず、其の年も暮れて文政四|巳年《みどし》と相成り、正月二月と過ぎて三月の十七日は母親《おふくろ》の十三年忌に当りますから、天竜院に於《おい》て立派に法事を営み、親方の養子夫婦は勿論兄弟弟子一同を天竜院へ招待《しょうだい》して斎《とき》を饗《ふるま》い、万事|滞《とゞこお》りなく相済みまして、呼ばれて来た人々は残らず帰りましたから、長二は跡に残って和尚に厚く礼を述べて帰ろうといたすを、和尚が引留めて、自分の室《へや》に通して茶などを侑《すゝ》めながら、長二が仏事に心を用いるは至極|奇特《きどく》な事ではあるが、昨年の暮頃から俄かに仏|三昧《ざんまい》を初め、殊に今日の法事は職人の身分には過ぎて居《お》るほど立派に営みしなど、近頃|合点《がてん》のいかぬ事種々あるが是には何か仔細のある事ならん、次第によっては別に供養の仕方もあれば、苦しからずば仔細を話されよと懇《ねんごろ》に申されますゆえ、長二も予《かね》て機《おり》もあらば和尚にだけは身の上の一伍一什《いちぶしじゅう》を打明けようと思って居りました所でございますから、幸いのことと、自分は斯々《かく/\》の棄児《すてご》にて、長左衛門夫婦に救われて養育を受けし本末《もとすえ》を委《くわ》しく話して居りますところへ、小坊主が案内して通しました男は、年の頃五十一二で、色の白い鼻準《はなすじ》の高い、眼の力んだ丸顔で、中肉中背、衣服は糸織藍万《いとおりあいまん》の袷《あわせ》に、琉球紬《りゅうきゅうつむぎ》の下着を袷重ねにして、茶献上の帯で、小紋の絽《ろ》の一重羽織を着て、珊瑚《さんご》の六分珠《ろくぶだま》の緒締《おじめ》に、金無垢の前金物《まえがなもの》を打った金革の煙草入は長門の筒差《つゝざし》という、賤《いや》しからぬ拵えですから、長二は遠慮して片隅の方に扣《ひか》えて居《お》ると、其の男は和尚に雑《ざっ》と挨拶して布施を納め、一二服煙草を呑んで本堂へお詣《まい》りに行きました。其の容体《ようだい》が頗《すこぶ》る大柄《おおへい》ですから、長二は此様《こん》な人に話でもしかけられては面倒だ、此の間に帰ろうと思いまして暇乞《いとまごい》を致しますと、和尚は又其の人に長二を紹介《ひきあわ》して出入場《でいりば》にしてやろうとの親切心がありますから、
 和「まア少しお待ちなさい、今のお方は浅草|鳥越《とりこえ》の龜甲屋《きっこうや》幸兵衛《こうべえ》様というて私《わし》の一檀家じゃ、なか/\の御身代で、苦労人の上に万事贅沢にして居られるから、お近附になって置くが好《え》い」
 長「へい有難うございますが、少し急ぎの仕事が」
 和「今日は最《も》う仕事は出来はすまい、ムヽ仕事と云えば私《わし》も一つ煙草盆を拵《こさ》えてもらいたいが、何ういうのが宜《え》いかな……これは前住《せんじゅう》が持って居ったのじゃが、暴《あろ》うしたと見えて此様《こない》に毀《こわ》れて役にたゝんが、落板《おとし》はまだ使える、此の落板に合わして好《え》い塩梅に拵えてもらいたいもんじゃ」
 と種々話をしかけますから長二は帰ることが出来ません、其の内に幸兵衛は参詣をしまい戻って来て、
 幸「毎月|墓参《はかまいり》をいたしたいと思いますが、屋敷家業というものは体が自由になりませんので、つい不信心《ぶしん/″\》になります」
 和「お忙しいお勤めではなか/\寺詣りをなさるお暇はないて、暇のある人でも仏様からは催促が来《こ》んによって無沙汰勝になるもので」
 幸「まア左様いう塩梅で……二月《ふたつき》ばかり参詣をいたさんうちに御本堂が大層お立派になりました、彼《あ》の左の方にある経机は何方《どちら》からの御寄附でございますか、彼様《あん》な上作《じょうさく》は是まで見ません、余《よっ》ぽど良い職人が拵《こしら》えた物と見えます」
 和「あの机かな、あれは此処《こゝ》にござる此の方の御寄附じゃて」
 幸「へい左様《さよう》ですか……これは貴方《あなた》御免なさい……へい初めてお目にかゝります、私《わたくし》は幸兵衛と申す者で……只今承まわれば彼の経机を御寄附になったと申すことですが、あれは何処《どこ》の何《なん》と申す者へお誂《あつら》えにな
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