たのです……私《わたくし》ア注文に違ってる品を瞞《ごま》かして納めるような不親切をする事ア大嫌《でえきれ》えです……最初手間料に糸目をつけないと仰しゃったから請負ったので、斯ういう代物《しろもの》は出来上ってみないと幾許《いくら》戴いて宜《い》いか分りません、此の仏壇に打ってある六十四本の釘には一本/\私の精神が打込んでありますから、随分|廉《やす》い手間料だと思います」
 助「フム、その講釈の通りなら百両は廉いものだが、火事の時|竹長持《たけながもち》の棒でも突《つッ》かけられたら此の辺の合せ目がミシリといきそうだ」
 長「その御心配は御道理《ごもっとも》ですが、外から何様《どん》な物が打付《ぶッつか》っても釘の離れるようなことア決してありませんが中から強《ひど》く打付けては事によると離れましょう、併《しか》し仏壇ですから中から打付かるものは花立が倒れるとか、香炉が転《ころが》るぐれえの事ですから、気遣《きづけ》えはございません、嘘だと思召すなら丁度今途中で買って来た才槌《せいづち》を持ってますから、これで打擲《ぶんなぐ》ってごらんなせい」
 と腰に挿していた樫《かし》の才槌《さいづち》を助七の前へ投出しました。助七は今の口上を聞き、成ほど普通の品より、手堅く出来てはいようが、元々釘で打付《うちつ》けたものだから叩いて毀れぬ事はない、高慢をいうにも程があると思いましたゆえ、
 助「そりゃア親方が丹誠をして拵《こさ》えたのだから少しぐらいの事では毀れもしまいが、此の才※[#「てへん+二点しんにょうの「追」」、第4水準2−13−38]《さいづち》で擲《なぐ》って毀れないとは些《ちっ》と高言《こうげん》が過《すぎ》るようだ」
 と嘲笑《あざわら》いましたから、正直|一途《いちず》の長二はむっと致しまして、
 長「旦那……高言か高言でねえか打擲《ぶんなぐ》ってごらんなせい、打擲って一本でも釘が弛《ゆる》んだ日にゃア手間は一文も戴きません」
 助「ムヽ面白い、此の才槌で力一ぱいに叩いて毀れなけりゃア千両で買ってやろう」
 と才槌を持って立上りますを、先刻から心配しながら双方の問答を聞いていましたお島が引留めまして、
 島「お父《とっ》さん……短気なことを遊ばしますな、折角見事に出来ましたお仏壇を」
 助「見事か知らないが、己には気にくわない仏壇だから打毀《ぶちこわ》すのだ」
 島「ではございましょうが、このお仏壇をお打ちなさるのは御先祖様をお打ちなさるようなものではございませんか」
 助「ムヽ左様《そう》かな」
 と助七は一時《いちじ》お島の言葉に立止りましたが、扨《さて》は長二の奴も、先祖の位牌を入れる仏壇ゆえ、遠慮して吾《われ》が打つまいと思って、斯様《かよう》な高言を吐《は》いたに違いない、憎さも憎し、見事叩っ毀して面の皮を引剥《ひんむ》いてくりょう。と額に太い青筋を出して、お島を押退《おしの》けながら、
 助「まだお位牌を入れないから構う事アない……見ていろ、ばら/\にして見せるから」
 と助七は才槌を揮《ふ》り上げ、力に任せて何処という嫌いなく続けざまに仏壇を打ちましたが、板に瑕《きず》が付くばかりで、止口《とめぐち》釘締《くぎじめ》は少しも弛《ゆる》みません。助七は大家《たいけ》の主人で重い物は傘の外《ほか》持った事のない上に、年をとって居りますから、もう力と息が続きませんので、呆れて才槌を投《ほう》り出して其処《そこ》へ尻餅をつき、せい/\いって、自分で右の手首を揉みながら、
 助「お島……水を一杯……速く」
 と云いますから、お島が急いで持ってまいった茶碗の水をグッと呑みほして太息《おおいき》を吐《つ》き、顔色を和《やわら》げまして、
 助「親方……恐入りました……誠に感服……名人だ……名人の作の仏壇、千両でも廉《やす》い、約束通り千両出しましょう」
 長「アハヽヽ精神《たましい》を籠めた処が分りましたか、私《わっちゃ》ア自慢をいう事ア大嫌《だいきら》いだが、それさえ分れば宜《よ》うがす、此様《こんな》に瑕が付いちゃア道具にはなりませんから、持って帰って其の内に見付かり次第、元の通りの板はお返し申します」
 助「そりゃア困る、瑕があっても構わないから千両で引取ろうというのだ」
 長「千両なんて価値《ねうち》はありません」
 助「だって先刻《さっき》賭《かけ》をしたから」
 長「そりゃア旦那が勝手に仰しゃったので、私《わたくし》が千両下さいと云ったのじアねえのです、私《わっち》ア賭事ア性来《うまれつき》嫌いです」
 助「左様《そう》だろうが、これは別物だ」
 長「何だか知りませんが、他《ひと》の仕事を疑ぐるというのが全体《ぜんてえ》気にくわないから持って帰るんです、銭金《ぜにかね》に目を眩《く》れて仕事をする職人じゃアございません」
 と仏壇を持出しそうにする心底の潔白なのに、助七は益々感服いたしまして、
 助「まア待ってください……親方……私《わし》がお前の仕事を疑ぐって、折角丹誠の仏壇を瑕物にしたのは重々わるかった、其処んところは幾重にもお詫をしますから、何卒《どうぞ》仏壇は置いて行ってください」
 長「だって此様《こんな》に瑕が付いてるものは上げられねえ」
 助「それが却って貴いのだ、聖堂の林様はお出入だから殿様にお願い申して、私《わし》が才槌で瑕をつけた因由《いわれ》を記《か》いて戴いて、其の書面を此の仏壇に添えて子孫に譲ろうと思いますから、親方機嫌を直して下さい」
 と只管《ひたすら》に頼みますから、長二も其の考えを面白く思い、打解けて仏壇を持帰るのを見合せましたから、助七は大喜びで、無類の仏壇が出来た慶《よろこ》びの印として手間料の外に金百両を添えて出しましたが、長二は何うしてもこれを受けませんで、手間料だけ貰って帰りました。助七は直《すぐ》に林大學頭《はやしだいがくのかみ》様の邸《やしき》へ参り、殿様に右の次第を申上げますと、殿様も長二の潔白なる心底と伎倆《ぎりょう》の非凡なるに感服されましたから、直に筆を執《と》って前の始末を文章に認《したゝ》めて下さいました。其の文章は四角な文字ばかりで私《わたくし》どもには読めませんが、是も亦《また》名文で、今日《こんにち》になっては其の書物《かきもの》ばかりでも大層な価値《ねうち》があると申す事でございます。斯様に林大學頭様の折紙が付いている宝物《ほうもつ》で、私も一度拝見しましたが御維新後坂倉屋が零落《おちぶ》れまして、本所|横網《よこあみ》辺へ引込《ひっこ》みました時隣家より出た火事に仏壇も折紙も一緒に焼いてしまったそうで、如何にも残念な事でございます。それは後《のち》の話で此の仏壇の事が江戸市中の評判となり、大學頭様も感心なされて、諸大名や御旗下《おはたもと》衆へ吹聴をなされましたから、長二の名が一時に広まって、指物師の名人と云えば、あゝ不器用長二かというように名高くなりまして、諸方から夥《おびたゞ》しく注文がまいりますが、手伝の兼松は足の疵《きず》で悩み、自分も此の頃の寒気のため背中の旧疵《ふるきず》が疼《いた》み、当分仕事が出来ないと云って諸方の注文を断り、親方清兵衛に後《あと》を頼んで、文政三|辰年《たつどし》の十一月の初旬《はじめ》、兼松を引連れ、湯治のため相州湯河原の温泉へ出立いたしました。

        六

 湯河原の温泉は、相州足柄下郡|宮上村《みやかみむら》と申す処にございまして、当今は土肥次郎實平《どいじろうさねひら》の出た処というので土肥村と改まりまして、城堀村《しろほりむら》にある實平の城山は、真鶴港《まなづるみなと》から上陸して、吉浜《よしはま》を四五丁まいると向うに見えます。吉浜から宮上村まで此の間は爪先上りの路《みち》で一里四丁ほどです。温泉宿は湯屋(加藤廣吉《かとうひろきち》)藤屋(加藤文左衛門《かとうぶんざえもん》)藤田屋(加藤林平《かとうりんぺい》)上野屋(渡邊定吉《わたなべさだきち》)伊豆屋(八龜藤吉《やかめとうきち》)などで、当今は伊藤周造に天野《あまの》某《なにがし》などいう立派な宿も出来まして、何《いず》れも繁昌いたしますが、文政の頃は藤屋が盛んでしたから、長二と兼松は此の藤屋へ宿を取りました。温泉は川岸から湧出《わきだ》しまして、石垣で積上げてある所を惣湯《そうゆ》と申しますが、追々|開《ひら》けて、当今は河中《かわなか》の湯、河下《かわしも》の湯、儘根《まゝね》の湯、下《しも》の湯、南岸《みなみぎし》の湯、川原《かわら》の湯、薬師《やくし》の湯と七湯《しちとう》に分れて、内湯を引いた宿が多くなりました。湯の温度は百六十三度|乃至《ないし》百五度ぐらいで、打撲《うちみ》金瘡《きりきず》は勿論、胃病、便秘、子宮病、僂麻質私《りょうまちす》などの諸病に効能《きゝめ》があると申します。西は西山、東は上野山、南は向山《むこうやま》、北は藤木山《ふじきやま》という山で囲まれている山間《やまあい》の村で、総名《そうみょう》を本沢《ほんざわ》と申して、藤木川、千歳川《ちとせがわ》などいう川が通っております。此の藤木川の流《ながれ》が、当今静岡県と神奈川県の境界《さかい》になって居ります。千歳川の下《しも》に五所《ごしょ》明神という古い社《やしろ》があります。此の社を境にして下の方《かた》を宮下村《みやしたむら》と申し、上《かみ》の方を宮上村と申すので、宮下の方《ほう》は戸数八十|余《あまり》、人口五百七十ばかり、宮上村は湯河原のことで、此の方は戸数三十余、人口二百七十ばかりで、田畑が少のうございますから、温泉宿の外は近傍《もより》の山々から石を切出したり、炭を焼いたり、種々《しゅ/″\》の山稼ぎをいたして活計《くらし》を立っている様子です。此の所から小田原まで五里十九丁、熱海まで二里半|余《よ》で、何《いず》れへまいるのにも路《みち》は宜しくございませんが、温泉のあるお蔭で年中旅客が絶えず、中々繁昌をいたします。さて長二と兼松は温泉宿藤屋に逗留して、二週《ふたまわり》ほど湯治をいたしたので、忽《たちま》ち効験《きゝめ》が顕《あら》われて、両人とも疵所《きずしょ》の疼《いた》みが薄らぎましたから、少し退屈の気味で、
 兼「長《ちょう》兄い……不思議だな、一昨日《おとゝい》あたりからズキ/\する疼みが失《なくな》ってしまった、能く利く湯だなア」
 長「それだから此様《こん》な山ん中へ来る人があるんだ」
 兼「本当に左様《そう》だ、怪我でもしなけりゃア来る処じゃアねえ、此処《こけ》え来て見ると怪我人もあるもんだなア」
 長「ムヽ、伊豆|相模《さがみ》は石山が多いから、石切職人《いしきりじょくにん》が始終怪我をするそうだ、見ねえ来ている奴ア大抵石切だ、どんな怪我でも一週《ひとまわり》か二週で癒《なお》るということだが、好《い》い塩梅にしたもんじゃアねえか、そういう怪我を度々《たび/\》する処にゃア、斯ういう温泉が湧くてえのは」
 兼「それが天道《てんとう》人を殺さずというのだ、世界《せけえ》の事ア皆《み》んな其様《そん》な塩梅《あんべい》に都合よくなってるんだけれど、人間というお世話やきが出てごちゃまかして面倒くさくしてしまッたんだ」
 長「旨い事を知ってるなア、感心だ」
 兼「旨いと云やア、それ此処《こけ》え来る時、船から上って、ソレ休んだ処《とこ》ア何《なん》とか云ったっけ」
 長「浜辺の好《い》い景色の処《ところ》か」
 兼「左様《そう》よ」
 長「ありゃア吉浜という処よ」
 兼「それから飯を喰った家《うち》は何とか云ったッけ」
 長「橋本屋よ」
 兼「ムヽ橋本屋だ、彼家《あすこ》で喰った※[#「魚へん+君」、21−6]《めばる》の煮肴《にざかな》は素的《すてき》に旨かったなア」
 長「魚が新らしいのに、船で臭《くせ》え飯を喰った挙句《あげく》だったからよ」
 兼「そうかア知らねいが、今に忘れられねえ、全体《ぜんてい》此辺《こけいら》は浜方《はまかた》が近いにしちゃア魚が少ねえ、鯛に比目魚《ひらめ》か※[#「
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