これを裁断すべき聖人の教《おしえ》あらば心得のため承知したいとの仰せがありました。

        三十八

 林大學頭様は、先年坂倉屋助七の頼みによって長二郎が製造いたした無類の仏壇に折紙《おりかみ》を付けられた時、其の文章中に長二郎が伎倆《うでまえ》の非凡なることゝ、同人が親に事《つか》えて孝行なることゝ、慈善を好む仁者なることを誌《しる》した次に、未《いま》だ学ばずというと雖《いえど》も吾は之を学びたりと謂《い》わんとまで長二郎を賞《ほ》め、彼は未だ学問をした事は無いというが、其の身持と心立《こゝろだて》は、十分に学問をした者も同様だという意味を書かれて、其の後《ご》人にも其の事を吹聴された事でありますから、その親孝行の長二郎が親殺しをしたといっては、先年の折紙が嘘誉《そらぼめ》になって、御自分までが面目《めんぼく》を失われる事になりますばかりでなく、将軍家の御質問も御道理でございますから、頻《しき》りに勘考を致されましたが、唐《から》にも此の様な科人《とがにん》を取扱った例《ためし》はございませんが、これに引当てゝ長二郎を無罪にいたす道理を見出されましたので、大學頭様は窃《ひそ》かに喜んで、長二郎の罪科御裁断の儀に付き篤《とく》と勘考いたせし処、唐土《もろこし》においても其の類例は見当り申さざるも、道理において長二郎へは御褒美の御沙汰《ごさた》あって然るびょう存じ奉つると言上いたされましたから、家齊公には意外に思召され、其の理を御質問遊ばされますと、大學頭様は五経の内の礼記《らいき》と申す書物をお取寄せになりまして、第三|巻《がん》目の檀弓《だんぐう》と申す篇の一節《ひとくだり》を御覧に入れて、御講釈を申上げられました。こゝの所は徳川将軍家のお儒者林大學頭様の仮声《こわいろ》を使わんければならない所でございますが、四書《ししょ》の素読《そどく》もいたした事のない無学文盲の私《わたくし》には、所詮お解りになるようには申上げられませんが、或方《あるかた》から御教示を受けましたから、長二郎の一件に入用《いりよう》の所だけを摘《つま》んで平たく申しますと、唐の聖人孔子様のお孫に、※[#「にんべん+及」、116−6]《きゅう》字《あざな》は子思《しゝ》と申す方がございまして、そのお子を白《はく》字《あざな》は子上《しじょう》と申しました、子上を産んだ子思の奥様が離縁になって後《のち》死んだ時、子上のためには実母でありますが、忌服《きふく》を受けさせませんから、子思の門人が聖人の教《おしえ》に背くと思って、何故《なにゆえ》に忌服をお受けさせなさらないのでございますと尋ねましたら、子思先生の申されるのに、拙者の妻《さい》であれば白のためには母であるによって、無論忌服を受けねばならぬが、彼は既に離縁いたした女で、拙者の妻でないから、白のためにも母でない、それ故に忌服を受けさせんのであると答えられました、礼記の記事は悪人だの人殺《ひとごろし》だのという事ではありませんが、道理は宜く合っております、ちょうど是《こ》の半右衞門が子思の所で、子上が長二郎に当ります、お柳は離縁にはなりませんが、女の道に背き、幸兵衞と姦通いたしたのみならず、奸夫と謀《はか》って夫半右衞門を殺した大悪人でありますから、姦通の廉《かど》ばかりでも妻たるの道を失った者で、半右衞門がこれを知ったなら、妻とは致して置かんに相違ありません、然《さ》れば既に半右衞門の妻では無く、離縁したも同じ事で、離縁した婦《おんな》は仮令《たとえ》無瑕《むきず》でも、長二郎のために母で無し、まして大悪無道、夫を殺して奸夫を引入れ、財産を押領《おうりょう》いたしたのみならず、実子をも亡《うしな》わんといたした無慈悲の女、天道|争《いか》でこれを罰せずに置きましょう長二郎の孝心厚きに感じ、天が導いて実父の仇を打たしたものに違いないという理解に、家齊公も感服いたされまして、其の旨を御老中へ御沙汰に相成り、御老中から直《たゞ》ちに町奉行へ伝達されましたから、筒井和泉守様は雀躍《こおどり》するまでに喜ばれ、十一月二十九日に長二郎を始め囚人《めしゅうど》玄石茂二作、並に妻《つま》由其の他《た》関係の者一同をお呼出しになって白洲を立てられました。

        三十九

 此の日は筒井和泉守様は、無釼梅鉢《けんなしうめばち》の定紋《じょうもん》付いたる御召《おめし》御納戸《おなんど》の小袖に、黒の肩衣《かたぎぬ》を着け茶宇《ちゃう》の袴にて小刀《しょうとう》を帯し、シーという制止の声と共に御出座になりまして、
 奉行「訴人長二郎、浅草鳥越片町龜甲屋手代萬助、本所元町與兵衛[#「與兵衛」は底本では「與兵徳」と誤記]店恒太郎、下谷稲荷町徳平店茂二作並に妻由、越中国高岡無宿玄石、其の外町役人組合の者残ら
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