と傍《そば》にある懸硯箱《かけすゞりばこ》を引寄せて鼻紙に何か書いて差出しましたから、清兵衞が取上げて見ますと、仮名交りで、
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一|私《わたくし》是まで親方のおせわになったが今日《こんにち》あいそがつきたから縁を切ります然《しか》る上は親方でないあかの他人で何事も知らないから左様《さよう》おぼしめし被下候《くだされそろ》
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文政|巳《み》十月十日[#地から9字上げ]長二郎
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箱清《はこせい》様
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とありますから清兵衛は変に思って眺めておりますを、恒太郎が横の方から覗き込んで、
恒「馬鹿な野郎だ、弟子のくせに此様な書付を出すとア……おや、長二は何うかしているんだ、今月ア霜月だのに十月と書いてあるア、月まで間違《まちげ》えていやアがる」
長「そりゃア知ってるが、先月から愛想が尽きたから、そう書いたんだ」
恒「負惜《まけおし》みを云やアがるな、此様な書付を張ったからにゃア二度と再び家《うち》の敷居を跨《また》ぎやアがると肯《き》かねいぞ」
長「そりゃア知れた事《こっ》た、此の書付を渡したからにゃア此家《こっち》に何《ど》んな事があっても己《おら》ア知らねえよ、また己の体に何様《どん》な間違えがあっても御迷惑アかけねえから、御安心なせいやし」
と立上って帰り支度を致しますが、余りの事に一同は呆れて、只互いに顔を見合すばかりで何にも申しませんから、お政が心配をして、長二の袂を引留めまして、
政「長さんお待ちよ……まアお待ちというのに、お前それでは済まないよ、よもやお忘れではあるまい、廿年前の事を、私は其の時十三か四であったが、お前がお母《っか》に手を引かれて宅《うち》へ来た時に、私のお母《っか》さんがマア十《とお》や十一で奉公に出るのは余《あんま》り早いじゃアないかと云ったら、お前何とお云いだ、お母《ふくろ》がとる年で、賃仕事をして私を育てるのに骨が折れるから、早く奉公をして仕事を覚え、手間を取ってお母に楽をさせたいとお云いだッたろう、お母さんがそれを聞いて、涙をこぼして、親孝行な子だ、そういう事なら何《ど》の様にも世話をしようと云って、自分の子のように可愛がったのはお忘れじゃアなかろう、また其の時お前の名は二助と云ったが、伊助という職人がいて、度々《たび/″\》間違うからお父《とっ》さんが長二という名をお命《つ》けなすったんだが、是にも訳のある事で、お前の手の人指《ひとさしゆび》が長くって中指と同じのを御覧なすって、人指の長い人は器用で仕事が上手になるものだから、指が二本とも長いというところで長二としよう、京都の利齋親方の指も此の通りだから、此の小僧も仕立てようで後には名人になるかも知れないと云って、他の職人より目をかけて丁寧に仕事を教えてくだすったので、お前斯うなったのじゃアないか、それに又お前のお母が歿《なくな》った時、お父さんや清五郎さんや良人《うちのひと》で行って、立派に葬式《ともらい》を出して上げたろう、お前は其の時十七だッたが、親方のお蔭で立派に孝行の仕納めが出来た、此の御恩は死んでも忘れないと涙を流してお云いだというじゃアないかね、元町へ世帯《しょたい》を持つ時も左様《そう》だ、寝道具から膳椀まで皆《みん》なお前お父さんに戴いたのじゃアないか、此様なことを云って恩にかけるのじゃアないが、お前左様いう親方を袖にして、自分から縁切の書付を出すとア何うしたものだえ、義理が済むまいに、お前考えてごらん、多くの弟子の中《うち》で一番親方思いと云われたお前が、此様な事になるとは私にはさっぱり訳が分らないよ」
二十五
政「恒兄に擲《ぶ》たれたのが腹が立つなら、私が成代《なりかわ》って謝るからね、何だね、子供の時から一つ処《とこ》で育った心安だてが過ぎるからの事だよ、堪忍おしよ、お父さんもお年がお年だから、お前でもいないと良人《うちのひと》が困るからよ、お父さんへは私がお詫をするから、長さんマアちゃんとお坐んなさいよ、何うしたのだねえ」
と涙を翻《こぼ》してなだめまする信実に、兼松も感じて鼻をすゝりながら、
兼「コウ兄い、いま姉《あね》さんもいう通りだ、親方の恩は大抵の事《こっ》ちゃアねえ、それを知らねえ兄いでもねえに、何うしたんだ、何《なん》か人にしゃくられでもしたのか、えゝ、姉さんが心配《しんぺい》するから、おい兄い」
長「お政さん御親切は分りやしたが、弟子師匠の縁が切れてみりゃア詫言《わびこと》をする訳もねえからね、人は老少不定《ろうしょうふじょう》で、年をとった親方いゝや、清兵衛さんより私《わっち》の方が先へ往《い》くかも知れませんから、他《ひと》を当《あて》にするのア無駄だ、
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