思った事も度々《たび/\》有ったが、お瀧の畜生に騙されて、子供の傍へ来る事も出来ねえ身の上になったが、彼《あ》ん畜生|余《あんま》りと云えば悪い奴だけれども、さっぱり縁を切って仕舞ったから、彼奴《あいつ》は松五郎と夫婦になったし、もう何も彼奴に念は無いから其処《そこ》に心配は有りません」
くの「それでも能く思い切ったね、勘弁する時にしねえばなんねえが、それも是も子供や私《わし》に免じて勘忍したで有りましょうが……おや貴方《あなた》の頭《つむり》に疵が出来てるのは何う為《し》やした」
茂「此の間中|独身者《ひとりもの》で居るから、棚から物を卸そうとすると、砂鉢《すなばち》が落《おっこ》って此様《こんな》に疵が付いたのさ」
くの「あらまア然《そ》うかね、危ねえ、定めて不自由だろうと思っても、近い処《とこ》だが往《い》く事も出来ないんだ、……然んなら私《わし》が脇差を持って来るからお定を抱いて居ておくんなさいよ」
茂「泣くといけねえから成《なる》たけ早く」
くの「はい、直《じき》に往って参《めえ》りますよ」
と是から家《うち》へ帰り、親父に知れぬように脇差をこっそり持って来て茂之助に渡しました。
茂「有難う/\……さア、お定は少し泣いたよ」
くの「誠に御方便なもので……布卷吉は何うやら一人学校へ参《めえ》りますし、私《わし》はお定を寝かし付けて、出来ない手で機を織って些《ち》っとずつ借金を埋めて置くように為《し》ます、悪《わり》い跡は善《よ》いだアから貴方《あんた》も気を落さずに身体を大切《でいじ》にして下せえまし、何事も子供と年寄に免じて勘忍しておくんなさいよ」
茂「あい……あいお前のような貞実な女房を余所《よそ》にして悪党女に騙されて迷ったのは、己の身に罰《ばち》が当ったのだが、何うぞ私《わし》の留守中親父を頼みます、宜《い》いかえ、私は是から一旦栄町へ帰って直《すぐ》に立つ積りだ」
くの「お茶でも上げたいが往来|中《なか》で」
茂「なに、お茶も何も飲みたくはない、留守中おくの身体を大切《だいじ》にしなよ」
くの「はい、貴方《あんた》が横浜から帰って来たらば、ちょっくら栄町の家《うち》を訪ねますから」
茂「あいよ、子供を頼むよ」
と何も彼《か》も人情が分って居ながら、諦めの附かんと云うものは因縁の然《しか》らしむる処でもございましょうが、茂之助は松五郎お瀧の二人を殺し、自分も腹を切って死ぬ決心故、是がもうおくのゝ顔の見納めかと、後《あと》を振返り/\脇差を腰に差して帰って往《ゆ》く後姿を見送って、
くの「はてな、彼《あ》の顔色は……うっかり脇差を渡したのは悪かったが、事に寄ったらお瀧さんを殺す心でも有りゃア為《し》ないか、私《わし》が猿田へ先へ往って此の由をお瀧に知らせようか」
と心配して居ります。斯《か》くとも知らず茂之助は猿田村の取付なる彼《か》の松五郎の掛茶屋へ斬り込むと云う、大間違になりまする処のお話でございます。
十五
えゝ、久しく上方へ参りまして大分御無沙汰を致しました。新聞にも僅か出しまして中絶いたしました霧隠伊香保湯煙のお話で、央《なかば》からお聴《きゝ》に入れまする事でございますが、細かい処《とこ》を申上げると、前々よりお読み遊ばしたお方は御退屈になりますから、直《すぐ》に続きを申上げます、足利の江川村で茂之助が女房に別れるとき、横浜へ行《ゆ》くからお父さんに内証《ないしょう》で脇差を持って来てくれと頼みました。これは恨み累《かさ》なるお瀧と松五郎を殺して、自分は腹でも切って死のうと云う無分別、七歳《なゝつ》になります男の子と生れて間もない乳呑児《ちのみご》を残し、年取った親父や亭主思いの女房をも棄《すて》て死のうと云う心になりましたが、これは全く思案の外《ほか》、色情から起りました事で、此の色情では随分|怜悧《りこう》なお方も斯様になりますことが間々あります。女房おくのは夫茂之助に別れる時に、何うも様子が変で、気になってなりませんから、万一《ひょっと》して軽躁《かるはずみ》な事をしてはならぬと、貞女なおくのでございますから、一歳《ひとつ》になりますおさだと申す赤児《あかんぼ》を十文字に負《おぶ》い、鼠と紺の子持縞の足利織の単物《ひとえもの》に幅の狭い帯をひっかけに結び、番下駄を穿《は》いて暮方から江川村を出まして、猿田の松五郎の宅へ参りました。見世は片付けて仕舞い、縁台も内へ入れて一方《かた/\》へ腰障子が建って居ります、なれども暑い時分でございますから、表は片々《かた/\》を明け放し、此処に竹すだれを掛け、お瀧が一人留守をして居りますと、門口から、
おくの「はい、御免なさいまし」
お瀧「何方《どなた》でございますか」
くの「松五郎さんのお宅は此方様《こちらさま》でございますか」
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