へえー成程お世話ア致しましょうか」
女「お世話たって私のようなものですから、誰《たれ》も貰ってくれる人がありませんもの……貴方は本当に奥さんがありませんか」
治「本当にありません、真実でげす、本当にないから無いと申上げましたので」
女「貴方はまアお調子が好過《よす》ぎますよ……ま一杯お酌を致しましょう……何んですね……私の様なものだってサ、本当に貴方のような結構なお身の上はありませんね」
治「なに余り結構じゃアございません」
女「巧く云っていらっしゃるよ」
 と治平の手首を握るを振払い、
治「ヘヽエ御冗談なすっちゃアいけません」
女「好《い》いじゃアありませんか、貴方本当にお独身《ひとかた》ですか」
治「へえ……」
女「私は当家へ参りましてから、貴方の在《い》らっしゃるお座敷ばっかり見て居りましたことを御存じですか」
治「ヘヽ何かどうも、飲酔《たべよ》いまして誠にどうも」
女「飲酔ったっても私は嘘は云いませんが、貴方は本当にお罪だと思いますよ」
治「其様《そん》なことを仰しゃると、私《わたくし》は田舎者ですから本当に為《し》ますよ」
女「嘘にされると却って腹が立ちますが、私のようなものでも貴方本当に貰って下さると仰しゃるなら、直《すぐ》に兄の方へ話しを致しますが、本当ですか」
治「奥さん本当だって……貴方はそりゃア真実に仰しゃるんですか」
女「私に嘘はありませんが、貴方《あんた》が真実なら何うか確《しっ》かとした貴方のお心の証拠が見とうございます」
治「心の証拠と仰しゃっても別に何もありません、と云って、まさか髪を剪《き》るの指を切るのと云う訳にも往《ゆ》きませんが」
女「女の口から此の様な事を云い出すは能々《よく/\》の事ですからよう」
治「ようたって……私《わたくし》にも何うして好《い》いか分りません」
女「何うしてって、貴方《あんた》のお心の証拠をさ」
治「いえ決して私《わたくし》は嘘を吐きません、神かけて嘘は云いません、若《も》しお疑りなさるなら、書付でも何んでも証拠を上げます、へえ」
女「本当に貴方《あんた》然《そ》うなんですか」
 と少ししなだれ掛る途端にガラリと障子を開け、スーッと立った男は鬚《ひげ》の生えて居る、眼のギョロリとした、鼻の高い、年紀《としごろ》三十四五にも成りましょうか、旅行《たび》洋服で、一方の手には蝙蝠傘とステッキとを一緒に持ち、片手には鞄を提げて居るを見て治平は驚きましたから、俄《にわ》かに飛退《とびの》き両手を突き、
治「これは入らっしゃいまし……何方《どなた》かお客さまが」
 と云われて女も驚きまして飛退きますと、
男「此の始末はマア何う云うもんか、呆れて仕舞《しも》うたなア……僕が僅かに十日|許《ばか》り東京《とうけい》に参って居た留守の間に、隠し男を引入れるとは実に怪《け》しからん事じゃ……これ密夫《みっぷ》貴様は何処の者《もん》じゃ」
 といわれて治平は「はてな此の人は銀行に出ると云った阿兄《あにき》か」と思いましたが、彼《か》の女に向い、
治「此れは何処のお方で」
女「はい、貴方に対しては誠に済みませんが、私の良人《つれやい》でございますよ」
治「えゝ……御亭主」
 と治平は真青《まっさお》になりブル/\慄え出すを見て、ガラリと鞄を投《ほう》り出し、どたアりと大胡座《おおあぐら》をかいて、隠《かくし》からハンケーチを取出《とりいだ》し、チンと涕《はな》をかんで物をも云わず巻煙草に火を移し、パクーリ/\と喫《の》みながらジロリ/\と怖い眼で治平の顔を見るばかり、此の時桑原治平の驚きは一方《ひとかた》なりません。此の者は谷澤成瀬《たにさわなるせ》と申す青山信濃殿町の官員でございます。

        七十

 彼《か》の洋服打扮《ようふくでたち》の人がスッと這入って来ました時には、桑原治平も驚きました。丁度今風呂に這入って来ましたお文と云う女中が、湯から上って来て此の体《てい》を見て恟《びっく》り致し、一旦座敷へ這入ったが次の間から再び出かゝるを目早く見付け、
成「コラ/\……コラー何処へも往《い》かんでも宜しい、其処に居れ、跡をピッタリ閉《た》って其処に坐って居れ……さ高《たか》これは何うか、ウーン此の始末は何う云うもんじゃ……貴方は何処の者《もの》じゃ、えゝ……貴公は何《いず》れの者か姓名をお聞き申したい、僕は東京《とうけい》青山信濃殿町三十六番地谷澤成瀬と申すものじゃが、貴公の姓名をお聞き申そう」
治「へえ/\手前は前橋竪町の商人桑原治平と申します」
成「コレ高、己が五日か十日の間東京へ往ってる間《ま》に斯う云う密夫を引入れて、此の為体《ていたらく》は何う云うものか、実にどうも何とも何うも言語道断の仕末じゃアないか、お前は僕に斯《か》くまで恥辱を与えたからには、僕も此の儘では
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