》差上げたいから来て下さいと云われたのでありますから、治平は是から急に髪を刈込み、髯《ひげ》を剃り、お湯に這入り、着物を着替え、大装飾《おおめかし》で正面の新座敷へ参り、次の間から、
治「へえ御免下さいまし」
下婢「おや入らっしゃいまし」
女「まア宜く入らっしって下さいました、先程は結構な物を沢山頂戴致しまして、何ともお礼の申上げようがございません」
治「何う致しまして、却って詰らんものを上げ、結構なものを戴きましたから、私《わたくし》は徳を致したような勘定で相済みません」
女「さ、座布団へ」
治「オヤお構いなすってはいけません、私《わたくし》はヘヽ前橋の田舎者《いなかもん》でございますから、東京《とうけい》のお菓子は大層結構で」
女「いえ、何ういたしまして……今日は何もございませんが、当地の名物だと申しますから、瓜揉《うりもみ》と胡麻豆腐だけを取りましたから、さア一口召上って」
と酌をする。
治「これは恐れ入りましてございます、向山の名物で……先程お女中から種々《いろ/\》お話でございましたが、殿様は飛んだ事でございました」
女「いえ最う過去《すぎさ》りました事で、今はもう諦めて仕舞いました、ト申すと何か不実なようでございますが、去る者日々に疎しとやらで、漸々《よう/\》忘れてしまいましたが、深川の方に少々身寄が有りますので」
治「左様でございますか、併《しか》し未だお若いのにお独身《ひとり》で在《いら》っしゃるのは惜《おし》い事で、まだ殿様は四十代でいらっしゃいましょう……へえ頂戴致します」
女「誠に失敬ですが、何うぞお喫《あが》り下さいまし」
と献《さ》いつ酬《おさ》えつ酒を飲んで居る中《うち》に、互に酔《えい》が発して参りました。彼《か》の女は目の縁《ふち》をボッと桜色にして、何とも云えない自堕落な姿《なり》に成りましたが、治平はちゃんとして居ります。
女「大層|畏《かしこ》まって在《い》らっしゃいますこと、何卒《どうぞ》お膝をお崩し遊ばして」
治「いえ大層酔いました」
下婢「宜《い》いじゃアありませんか、まア御緩《ごゆっく》りなすっていらっしゃいましよ…奥さん私はお湯に這入るのを忘れましたから、ちょいとお湯に這入って参りますから」
女「じゃア文《ふみ》や這入っておいで、其処に石鹸《しゃぼん》があるから持っておいで、それは私の使いかけで入らぬから」
下婢「はい…それじゃア貴方御免遊ばして」
と好《い》い程に其の場を外して下婢《かひ》は下へ降りて仕舞いました。治平は少し色気がありまして、何となく間が悪いから煙管で腮《あご》の処を突衝《つッつ》いて見たり、くるりと廻して頬辺《ほッぺた》へ煙管の吸口を当てたり、ポン/\と叩いて煙草ばかり喫《の》んで居ります。
女「貴方は何でございますか、前橋の何と云う処で」
治「ヘヽ竪町と云うごた/\して居ります処で」
女[#「女」は底本では「治」]「お盛んな大層|好《い》い処だそうで……貴方は御新造さまをお連れ遊ばしませんのですか」
治「家内は無いのです、手前の妻《さい》は五年|前《ぜん》に歿しまして、それからは独身《ひとりみ》で居ります、へえ、至って手狭ではありますが、些《ちっ》とお立寄を願いとうございます」
女「はい……まだ私は参った事はありませんから一度見物したいと思って居りますが、お寄申して万一《ひょっと》奥さんか又権妻さんでもいらしって、お悋気《りんき》でもあるとお気の毒だと存じまして」
治「いえ家内は全く無いのでございます、尤も世話をして呉れるものもありましたが、長し短かしで何うも善《よ》いのがありませんから独身《どくしん》で居りますが、却って気楽でございます」
女「それはマア好《よ》いお身の上で……貴方のようなお方の御新造になる方は本当にお仕合せで」
治「へゝ、なに仕合せでもありますまい、何うもヘヽ誠に不粋な人間で何も心得ませんからなア……貴方さまもお一方で、お子供|衆《しゅ》はございませんか」
六十九
女「はい子供はございません、親類が深川に居りまして、これが銀行へ出ますので、私は其の方《ほう》へ引取られて参るより他に仕方のない身の上でございますが、疾《と》うッから嫁付《かたづ》け/\再縁しろと申しまして、兄が申すには官員は忌《いや》だから遣らない、商人《あきんど》が一番|好《い》いが、何《な》んなら他県で堅い商人であって、横浜へ来て取引をするような田舎の商人の方が、田地なども持って居て身代が堅いから、然《そ》う云う処へ縁付けたいと夫《そ》ればかり申して居りますが…何処かに好い口があったら縁付けると兄が申すので」
治「へえーなアる程……実は東京《とうけい》も盛んな処《とこ》でげすが、また手堅い処《ところ》へ参っては田舎の方が手堅うございますからな、
前へ
次へ
全71ページ中63ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三遊亭 円朝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング