きました」
幸「並の醤油を造る大桶の数が百四十五もあると云うが、近い処だけれども大きいものだね」
由「大きいたって私《わたくし》は実に驚きました、醤油を三十石ぐらい造るんで、蔵の中に居る人数《ひとかず》が四五十人ぐらいも有って、事が大きいたって、あの竈《かまど》の釜は何うでげす、矢張|彼《あ》れは釜屋堀《かまやぼり》の七|右衞門《うえもん》(今の釜浅鋳造所《かまあさちゅうぞうじょ》)が拵えたんでげしょうが、七右衞門と六右衞門が釜を売って、たった一右衞門違いで五右衞門は其の釜で※[#「火+(世/木)」、第3水準1−87−56]《うで》られたてえのは妙でげすな」
幸「詰らねえ事を云うな」
由「亀甲万の旦那に彼《あれ》は旦那の御紋ですかと聞いたら、なに然《そ》うじゃアない、是には種々《いろ/\》訳のある事だ、南新堀《みなみしんぼり》に萬屋忠藏《よろずやちゅうぞう》と云う仲買があって鱗の紋だから、それを二つ合せて萬屋の萬の字を附けたのが始りだと申しますが、不粋《ぶいき》な紋もありますが、僕のは太輪《ふとわ》にして中を小さく為《し》ても抱茗荷《だきみょうが》はいけません、彼《あれ》を細輪にして中を大きく出すと商人《あきんど》らしく成ります、形が悪うございますね、抱茗荷を太輪にすると馬の腹掛のようでいけませんな、ハヽヽヽヽ」
幸「静かにしねえか」
由「はい、大きな声で喋りましたが、何うでげす、彼《あ》のツークの重次郎どんテレツク/\スッテンテンてえのは」
幸「止しなよ」
と話をして居りまする。其の隣座敷に居りましたのは前申上げました奧木佐十郎という年齢《とし》は六十六に成り、忰も嫁も死んだので拠《よんどころ》なく機織女を抱え、僅かの事で其の日を送って居りますが、一体達者な爺さんだから、今年十三に成ります孫の布卷吉と云うものを亀甲万へ奉公にやって置き、孫に会いに参ったのでございます。
佐「これは詰らん物だけれども、宜《い》い物を上げたって何も彼《か》も御不自由のないお宅《うち》だから、是だけお祖父《じい》さんが持って来たから、旦那様へ上げておくれよ、お前何でも能く辛抱して、然《そ》うして、宜《よ》いか、何も私《わし》がお前に過《すご》して貰おうてえのじゃアねえが、奧木の家を相続するのはお前より他にはねえから、奉公は辛い、辛いものだけれども詰りお前の為だ、取分け朋輩|衆《しゅ》も多かろうから、番頭さん始め若い衆から朋輩衆の機嫌を取損《とりそこな》わねえようにして、怠りなく旦那さまを大切《だいじ》に為《し》なければならねえよ」
布「お祖父さん、私《わし》は奉公が厭になりましたから、今日|直《すぐ》に足利へ連れて帰って下さいな、誠に御無理な事を云うようでございますけれども、今日お前さんのおいでなすったのは幸いでございますから、何卒《どうぞ》お暇《ひま》を戴いて帰り、私《わたし》はお祖父さんの傍《そば》に居とうございます」
佐「お前は私《わし》の顔を見ると其様《そん》な事ばかり云う、それだから私は滅多に顔出しをしないのだ……それは辛らいさ、辛いけれども何様《どん》な人だって奉公を為《し》て、他人の中を見て其の苦しみをして来たものでなければ役には立ちません、お祖父さんの傍に置いて、何でもはい/\とお前の云うなり次第に気儘にすれば馬鹿に成っちまいますから、辛かろうが他人の中《うち》で辛抱して、何様な事でも生涯の立つ事を覚えなければ成りません、殊に結構なお店《たな》で、旦那さまもお慈悲深《なさけぶか》いし、文明開化の事も能く御存じのお方ゆえ、何でもすがって居なければならねえのに、苟《かりそ》めにも帰りたいなどと云っては成りません、何だって其様なことを云う」
五十六
布「お祖父さん、あんたは老《と》るお年でございますから、お父《とっ》さんお母《っか》さんも死んでから、お祖父さんのお蔭で私は斯様《こんな》に大きくなりましたが、幾らお達者だって、最う六十の上六つも越して入らっしゃるから、翌《あす》が日病みお煩いに成っても、お薬一服煎じて貴方に服《の》ませるものはありませんと思えば、熱かったり寒かったりする度《たび》に気になりまして、お前さんの事を朝晩忘れた事はありません…復《また》奉公に参りますまでも一旦は帰りとうございますから何卒《どうぞ》お暇を戴いて下さいまし」
佐「お前そんな事を云っては困ったなア……お祖父さんは無いものと思え、お祖父さんの事などを思って奉公が出来るものか、お祖父さんも以前《まえ》は大小を差して、戸田家にて仮令《たとえ》少禄でも御扶持《ごふぢ》を戴いたものだ、其の孫だからお前も武士《さむらい》の血統《ちすじ》を引いて居るではないか、忠孝|全《まった》からずと云うて、奉公をする身は仮令両親があっても主人に事《つか》える
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