《くちとり》か何かありそうなものだ、見附《めっ》けて来ておくれ」
下女「はい」
と下女が二度目に使いに参り、帰った時にポーンと酉刻《むつ》が鳴ります、朝飯《あさはん》が夕六時《くれむつ》でございます。是からお化粧に取り掛ります。すっかり髱《たぼ》や何かを櫛で掻上げて置いて、領白粉《えりおしろい》を少し濃めに附け、顔白粉を附けてから、濡れた手拭で拭い取ってしまいます。誠に無駄な事を致します。唇へ差した余りの紅を耳たぶや眼の間へ差して、髪を掻揚げてしまい、着物を着替えたりするとボーンと夜《よ》の亥刻《よつ》になります。
権「ちょいと其処の三味線を取っておくれよ」
と、柱に倚掛《よりかゝ》って碌に弾けやアしませんが、忌《いや》アな姿になってポツ/\端唄《はうた》の稽古か何かを致して居ります中《うち》に、旦那がおいでになります。是からお酒が始まるとボーンと子刻《こゝのつ》に成りますから、昼だか夜《よる》だか頓と分りません。それに引替えて今の権妻は権威が附いたのか、旦那の為に学問を為《し》ようといって御勉強でございます。
五十一
さて橋本幸三郎は霊岸島から橋場へ通いますには何か托《かこつ》けなければなりません。今日は斯う云う権門《けんもん》だとか、明日はあゝ云う集会があって拠《よんどころ》なく遅く成りましたら橋場の別荘へ泊りますと、断っては出掛けます。何時も岡村由兵衞が一緒で、或日丁度自分の宅《うち》の少し手前に懇意なものがありまして、此家《こゝ》での宴会を済まして表へ出ると、彼《か》れ此《こ》れ一時でございます。
幸「由さん遅く成って気の毒だね」
由「なに遅くなったって、斯う云う時に御別荘の有るてえ此の位便利な事はありません、だが矢張川口町へ帰るつもりで頻《しき》りに急ぎましたが知れるといけません、好《い》い塩梅によし原の(芸者)おしめ、延《のぶ》しん、おなおなぞが、貴方の此処へ帰る事を知りませんから宜うございますが、知った日にゃア、ヘエーてんで無闇に来ますよ」
幸「お前ばかり知ってるんだから誰にも喋っちゃアいけねえよ」
由「なに私《わたくし》は喋りゃアしませんが、実に世間にも権妻は幾許《いくら》もございますが、何《いず》れ芸者上りが多いので、旦那が大金を出して身請を為《し》てサ、増長させて云う芽が出るんですが、それとちがいお宅のお内《うち》さんぐらいの温和《おとなし》い方を私は未だ見た事がありません、第一|信心者《しん/″\しゃ》でげす」
幸「ウン余り外へ出るのが嫌《きれ》えで、芝居は厭だ花見は厭だといって、宅《うち》に居て草双紙を見るのが宜《い》いてえんだ」
由「御自慢なせえ/\、実に彼《あ》の方は品が違いますねえ、私《わたくし》が参っても物数云わず、にっこりと笑われると胸がむか/\して来て、カアーと気が遠くなる位のものでげすが、一向にお化粧《しまい》もなさいませんが、何処ともなくお美しゅうございますなア、此の間の黄八丈はすっかりお似合なさいましたぜ」
幸「平素《ふだん》は木綿で宜《い》いなんて彼《あれ》は少し変って居るね」
由「変ってる処じゃアありません、彼様《あん》なものが上州四万村|辺《あたり》に居ようとは思いきやで、御運が悪くって御苦労なすって、あゝやって在《いら》っしゃるくらい御苦労の果《はて》だからさ、大概の権妻は朝寝が嗜《すき》で、第一|喰物選《くいものえら》みをして、あの着物を買いたいの、此処へ往って見たいとか劇場《しばい》へ往《い》きたいとか種々《いろ/\》云い出して、チン/\をするくらい無理なのはありませんよ、旦那が奥さんの処へ往って寝るのを権妻がチン/\をするくらい何う考えても無理なのはありません、旦那がお茶を習えとか活花を稽古|為《し》ろってえと忌《いや》アに捻《ひね》って仕舞い、女の癖に変なこうポツ/\毛の生えた羽織などを着ていけません、それに洋学などを習ったりすると変な気位《きぐらい》ばかり高くなって、外国の話なんぞを為ますが、僕などには些《ちっ》とも分りませんで面白くありませんが、彼《あ》のおりゅうさんなぞは柔和でね、何も彼《か》も心得てゝ女らしく在《いら》っしゃるのは、ありゃアちょっと出来ないて……」
犬「ワン/\」
由「シッ畜生……」
犬「ワン/\」
由「畜生/\」
幸「かめ/\……帰ったよ……トン/\/\、おさんや帰ったよ、トン/\/\」
さん「はい」
と小声で返辞をして慄《ふる》えながら窃《そっ》と戸を開け、
さん「静かにして下さいましよ、盗賊《どろぼう》が這入りましたよ」
幸「えゝ……何処から這入った、締りは厳重にして置いたんだろう」
さん「あれ……貴方|其方《そっち》へ往っちゃアいけませんよ」
と云われて慌てゝ由兵衞は柱へ頭をコツリ。
由「あ痛い何うも……私《
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