は頓と出るも引くも出来ませんで、空しく湯治を致して居りました。
幸「あゝ案外つまらん目に遭った、併《しか》し東京に帰るに付いて他《ほか》に土産もないから」
と前々《ぜん/″\》思いを掛けました彼《か》の鈴木屋と云う料理茶屋の働き女おりゅうを五十円で身請を致しました。おりゅうのお瀧は何処までも縋《すが》って橋本幸三郎を騙し五十両の金子《かね》を取って窃《ひそ》かに松五郎に持たせて越後へ立たせてしまい、自分はずう/\しくも請出され、東京へ来て橋本幸三郎の妾となって橋場に囲われて居りました。直《すぐ》におりゅうの母をたずねると死にましたと云う。是も皆うそでありますが、幸三郎はおりゅうにすっかり欺《だま》されまして、あれは世間へ出るのが嫌いで、至って温順《おとな》しい、志も感心なものだ、芝居も見たがりもせず、美《い》い着物を着たがらんで信心一三昧で温順しく宅《うち》にばかり居る、彼様《あん》な感心なものはない、いずれ気象が知れたら女房に為《し》ようと幸三郎は思って居りました。
五十
橋本幸三郎が瀧川左京という旗下のお嬢さまと存じて悪党のお瀧を五十円にて身請を致し、橋場の別荘へ囲って置きました。只今の権妻《ごんさい》は極く勉強でございます。先ず旦那のおいでのない日には洋学をして見ようとか、或は少しずつ歌でも習おうとか、それとも編物をやって見ようとか云って何か遣って居りますなれども、昔の妾ぐらい怠けたものは有りません。只今なれば起るのが十時でげすな、往時《まえ》は巳刻《よつ》と云った時分に稍《ようや》く眼を覚して、
権「誰か火を持って来ておくれな」
と是から枕元へ下女が煙草盆へ切炭を埋《い》けて持って来ますと、腹這《はらんばい》になって長い烟管《きせる》で煙草を喫《の》むこと/\おおよそ十五六服喫まんければ眼が判然《はっきり》覚めないと見えます。是から寝衣《ねまき》の姿《なり》で、ずうッと起上って障子を開け、廊下伝いに往って便所へ這入り、小用《こよう》を達《た》すのでございましょうが、此のまた便所の永いこと稍《やゝ》三十分ばかりも這入って居ります、出て来ると楊枝箱《ようじばこ》に真鍮《しんちゅう》の大きな金盥《かなだらい》にお湯を汲《と》って輪形《りんなり》の大きな嗽《うが》い茶碗、これも錦手《にしきで》か何かで微温《ぬるま》の頃合の湯を取り、焼塩が少し入れてあります。下女が持って参ります。是から楊枝を遣い始めようとすると、ゴーンと云うのが上野の午刻《こゝのつ》だから今の十二時で何う云う訳か楊枝が四本あります、一本へ歯磨を附けまして歯の齦《もと》と表を磨き、一本の楊枝で下歯の表を磨き、又一本の楊枝で歯の裏を磨き、小さい楊枝が有りまして、これで歯の間々《あいだ/\》を掃除いたします。舌をこきますときは化物が赤児《あかんぼ》でも喰うような顔付を致しまして、すっかり溜飲を吐いてから嗽《うがい》を致しまして、顔を洗い、それから先ず着物を着替るので、其の永い事、それから神仏へ向いまして線香を上げまして一心に拝みは為《し》ませんが、神棚や仏壇に向ってごちゃ/\云いながら拝んで居ります中《うち》に、漸く下女が茶を入れて持って参りますから、これを飲んで居ると、ポーンと未刻《やつ》の鐘が響きますから、
権「お湯に往《い》こう」
と昔は種々《いろ/\》のものを持って往ったもので、小さい軽石が有りまして朴木炭《ほうのきずみ》、糠袋《ぬかぶくろ》の大きいのが一つ、小さいのが一つ、其の中に昔は鶯《うぐいす》の糞《ふん》、また烏瓜《からすうり》などを入れたものでございます。爪の間を掃除致すものを持って参り、下女に浴衣を抱えさせてお湯に這入りますのが尽《こと/″\》く長い。先ず悉皆《すっかり》洗い上げて、すうッと湯屋から出て家《うち》へ帰って来ますと、ポーンと鳴る、是が申刻《なゝつ》と云うので、それから
「さアお飯《まんま》を喰べようねえ」
と是から朝御膳に成るのでございます。お膳の上には種々な物が載って居ります。自分の嗜《すき》なものが小さい葢物《ふたもの》に這入ったり、一寸《ちょっと》片口に這入ったり小皿に入れたりして有りますが、碌なものはありません、お芋の煮たのや豆の煮たのやなにかを取交《とりま》ぜて有ります、総唐草の輪形の茶碗へ銀の股引を穿《は》いた箸を出して喰べようと致して、
権「あゝー痛いこと……ちょいとその丸薬を取っておくれ」
と丸薬を七粒|服《の》んでお膳に向い、
権「是じゃア喰べられやアしないよ、例《いつも》の処で何か見つくろって来ておくれ」
と喰いません。仕方がないから誂《あつら》えに往《い》くと間もなくお椀に塩焼とか照焼が来ます。
権「気に入らないよ、妾《わたし》はいやだよ、それより甘いものが嗜《すき》だから口取
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