ある山田川の渦巻立った谷川へ、彼《か》のお藤は真逆《まっさか》さまに落ちましたが、これは何様《どん》な者でも身体が微塵《みじん》に砕けます。
峯「どうした杢八」
杢八「なんだ、己が横ッ腹ア蹴《け》たら婆アおっ死《ち》んだ」
峯「大きに御苦労だ、何しろ惜しい事をした、肝腎の女《たま》ア此の谷へ落しちまった」
杢「どうした」
峯「川の中へ飛込んだ」
杢「どうする」
峯「どうするたって仕様がねえ、とても助からねえ、愚図ッかして人が来ると仕様がねえ、鞄は車へ乗せるから……手前《てめえ》、何処へ往《い》く」
杢「往くッたってお前《めえ》唯は往かれねえ」
峯「そりゃア極って居らア、さアこれを持って往け」
杢「これだけありゃア今月一|杯《ぺい》は休みだ」
峯「旨《うめ》え物でも食って娼妓《じょろう》でも買え」
杢「有難《ありがた》え、こんな手伝《てつだえ》しなけりゃア旨《うめ》え物が食えねえから」
峯「己は乗せて来た鞄を持って往くから、後《あと》ア又伊香保で会おうぜ」
杢「じゃア別れる」
と彼《か》の鞄を付けて峰松は折田村の傾斜《なだれ》を下りましたが、見かけによらぬ大悪人でございます。此の峯松は三年|前《あと》に足利栄町に於きましてお瀧と密通して、茂之助夫婦が非業な死を遂げた村上松五郎と云う士族《さむらい》で、今姿を変えても斯様な悪業を働いて居ります。
四十五
さて車夫の峯松が、欺いて連れ出しましたお藤と云う彼《か》の婦人を、皀莢滝の谷間《たにあい》へ追込みましたので、お藤は勝手は知らず、足を蹈外《ふみはず》して真逆《まっさか》さまに落ちましたが、御案内の通り彼《あ》の折田の谷は余程深うございまして、下には所々《しょ/\》に巨岩《おおいわ》が有りまして、これへ山田川の流れが衝《あた》って渦を巻いて落します。水色|真青《まっさお》にして物凄い所であります。前面《むこう》には皀莢滝と申します大滝が有りまして、ドウードッと云うすさまじい水音でございます。其処へ落ちては五体粉微塵となるくらいの嶮岨《けんそ》な処でありますから、決して助かりよう筈はないのでございます。丁度其の晩山田川へ筏を組みに参って居りましたのは、市城村の市四郎と云う侠気《おとこぎ》の人で、御案内の通り筏乗と申すものは、上州でも多く五町田、市城村、村上|彼《あ》の辺に住《すま》いを致して居ります。此の日向見川《ひなたみがわ》と荒川《あらかわ》と云うのが二筋《ふたすじ》に別れて来ます。是は信州と越後との境から落して参り、四万川と称え、流れの末が下山田川《しもやまだがわ》に合《がっ》して吾妻川へ落しますゆえ、山から材木を伐出《きりだ》し、尺角《しゃくかく》二尺角|或《あるい》は山にて板に挽《ひ》き、貫小割《ぬきこわり》は牛の脊《せ》で下《おろ》して参ります。山田川で筏を組みますには藤蔓《ふじづる》を用います、これを上拵《うわごしら》えととなえ、筏乗の方では藤蔓のことを一|把《わ》二把と申しませんで、一タキ二タキと云います、一|駄《だ》六|把《ぱ》ずつ有りまして、其の頃では一駄七十五銭で、十四五本ぐらいずつ紮《から》げましてこれを牛の脊で持って来るのを、組揚げて十二段にして出しますが、誠に危い身の上でございます。筏乗は悪く致すと岩角に衝当《つきあた》り、水中へ陥《おち》るような事が毎度ありますが、山田川から前橋まで漕出《こぎだ》す賃金は稍《ようや》く金二円五十銭ぐらいのもので、長い楫《かじ》を持ち筏の上に乗って、前後《あとさき》に二人ずつ居りまして、中乗《なかの》りが三人ぐらい居まして、忽《たちま》ちに前橋まで此の筏が下りて参りますが、中々容易なものでは有りません。只今|彼《あ》の市四郎が上拵えの手伝いを致して居りますると、
「きャー」
と云う女の声に恟《びっく》り致して、市四郎が仰向《あおむ》いて見ますと、崖の上からバラ/″\/″\と櫛《くし》笄《こうがい》が落ちて来ました。
市「おや……何か落ちて来た」
と身を屈《かゞ》めて透《すか》して見ますと、谷間《たにま》に繁茂致して居《お》る樹木にからんで居ます藤蔓は、井戸綱ぐらいもある太い奴が幾つも八重になって紮《から》んで居ます、其処へ陥《おち》いりましたはお藤と云う女の運が好《い》いので、藤蔓と藤蔓の間へ身が挟《はさ》まって逆さまに成りましたから、髪も乱れ、お藤は一生懸命に藤蔓へ掴《つか》まったなり気が遠くなりました。
女「あゝ……」
と云う声に恟りして市四郎が仰向いて見ますと、一人の女が藤蔓の間に挟まって下《さが》って居ましたから、
市「おゝ/\落ちたこと、あゝ危い」
と素《もと》より勝手を知って居りますから、忽ちに市四郎が岩角に捕《つか》まって這い上り、樹《き》の根へ足を蹈《ふ》ん掛《が》けて彼《か
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