、何ういう敵を討つのだえ」
繼「私はねお父《とっ》さんの敵を討ちに出ました、その訳と云うのは越中高岡の大工町に居ます時、継母のお梅と云うのが、前の宗慈寺という真言寺の和尚と間男をして、然《そ》うしてお父さんを薪割で殺して逃げました、其の時私は十二だったが、何卒《どうぞ》敵を討ちたいと心に掛けて居る中《うち》に、もう十六にも成ったから、止めるのを無理に暇乞《いとまごい》をして出て来ました、三十三番の札を打納めさえすれば、大願成就すると云う事は予《かね》て聞いて居ますし、観音様の利益《りやく》で無理な事も叶うと云う事でございますから、目差す敵は討てようと思って居ますけれども、貴方は男だから、夫婦に成って下すったら助太刀もして下さるだろうと、力に思って居りますので」
山「それは妙だ、私も敵討をしたいと思ってねえ、私は姉《あね》さんの敵だが、それじゃアお前の敵は越中高岡の坊さんかえ」
繼「いゝえ坊さんに成ったのだが、その前は榊原様の家来でございます」
山「うん榊原の家来……私の親父も榊原藩で可なりに高も取る身の上に成ったのだが、何う云う訳か私と姉を置いて行方知れずに成りましたから、実は姉と私と神仏《かみほとけ》に信心をして、行方を捜したのだが、今に死んだか生きたか生死《しょうし》の程も分らずに居るが、私の姉を殺した奴も元は榊原藩で水司又市と云う奴……その名の分ったのは姉を口説いた時に、惠梅という比丘尼が嫉妬《やきもち》をやいて身の上を云う時に、次の間で聞いて知ってるので」
繼「まア何うも希代《きたい》なこと、私のねえお父さんを殺して逃げた奴も永禪和尚と申しますので、真言寺の住持に成ったが、元は水司又市と云う者で、やっぱり私の尋ねる敵だわ」
山「そりゃア妙な事が有るもんだねえ、よく似てるねえ」
繼「似て居ますねえ」

        五十二

山「何うも不思議な事も有るものだ、それじゃア何だね、お前のお母さんは坊さんかえ」
繼「いゝえ、私の継母は元は根津の女郎《じょうろ》をしたお梅という者で、女郎の時の名は何と云ったか知りませんが、又市と逃げるには姿を変えて比丘尼に成ったかも知れません」
山「これは何うも不思議だ、あの十曲峠で私と間違えてお前を追掛《おっか》けた、あの柳田典藏という奴が私の家《うち》の姉《あね》さんに恋慕を仕掛けた所が、姉さんは堅い気象で中々云う事を肯《き》かぬから、到頭葉広山へ連れて行って、手込めにしようと云う所へ、通り掛ったのが今の水司又市と云う者で、これが親切に姉さんを助けて家へ送って呉れたから、兎も角も恩人の事だからと云って家に留めて置く中《うち》に、水司又市が又姉さんに恋慕をしかけるから、姉さんは厭がって早く何卒《どうぞ》して突き出そうと思ったが、中々出て行かない、その中に宜い塩梅《あんばい》に家を出立したと思うと、お前さんの継母か知らないが、惠梅比丘尼を山中《さんちゅう》で殺して家へ帰って来て、又姉さんに厭な事を云い掛けたから、一生懸命に逃げようとすると、長いのを引抜いて姉さんを切った、それで私は竹螺《たけぼら》を吹いて村方の人を集め、村の者が大勢出たけれども、到頭又市に逃げられ、姉さんの臨終に云った事も有るから、始終心に掛けて、漸《ようや》く巡礼の姿に成って旅立をした所が、私の尋ねる敵をお前も尋ね、お互に合宿になって私が看病をして貰うと云うのは、余程《よっぽど》不思議なことで、これは互に遁《のが》れぬ縁だ」
繼「あゝ嬉しいこと、何卒私の助太刀をして下さいよ」
山「助太刀どころじゃアない、私が敵を討つのだから」
繼「いゝえ私が親の敵を討つのだから、お前さん一人で討っちゃアいけません、私の助太刀をしてしまってから姉さんの敵をお討ちなさい」
山「そんな事が出来るものか、何うせ私も討つのだから夫婦で一緒に斬りさえすれば宜《よ》い」
繼「本当にまア嬉しい事」
山「私も斯《こ》んな嬉しい事アない、これも観音様のお引合せだろうか」
繼[#「繼」は底本では「山」]「本当に観音様のお引合せに違いない……南無大慈大悲観世音菩薩」
 と悦びまして、
山「もう斯う打明けた上は、仮令《たとえ》見棄てゝも遁《のが》れぬ不思議な縁」
 とこれから山之助は気が勇んで、思ったより早く病気が全快致しましたからまだ雪も解けぬ中《うち》を、到頭出立致し、おい/\旅を重ねまして、翌年二月の月末《つきずえ》に紀州へ参りました。紀州へ参りましたが、一向何も存じませんから、人に教わって西国巡りの帳面を見ると、三月十七日から打初めるのが本当だと云う事で、少々|日数《ひかず》は掛りまするが、仮令《たとえ》月日が立とうが敵を尋ねる身の上でございますから、又市の隠れて居そうな処へ参っては此処《こゝ》らに潜んで居ないかと敵の行方を探しながら、三十三番の札所を巡ります。先《まず》一番始まりが紀州の那智、次に二番が同国紀三井寺、三番が同じく粉川寺《こがわでら》、四番が和泉の槙《まき》の尾《お》寺、五番が河内の藤井寺、六番が大和の壺坂、七番が岡寺、八番が長谷寺、九番が奈良の南円堂《なんえんどう》、十番が山城宇治の三室《みむろ》、十一番が上《かみ》の醍醐寺《だいごでら》、十二番が近江《おうみ》の岩間寺《いわまでら》、十三番が石山寺、十四番が大津の三井寺と段々|打巡《うちめぐ》りまして、三十三番美濃の谷汲《たにくみ》まで打納めまする。其の年も暮れ翌年になると、敵を捜しながら、段々と東海道筋を下って参り、旅をすること丁度足掛三年目の二月の五日に江戸へ着《ちゃく》致しましたが、是と云って外《ほか》に頼る処もございませんから、先《まず》葛西の小岩井村百姓文吉の処に兄が居りはしまいかと思って、村の入口で聞きますると、それはあの榎《えのき》のある処から曲って行《ゆ》くと、前に大きな榛《はん》の木が有るからと教えられて、其の通り参って見ると、百姓家は土間が広くしてある、その日当りの好《よ》い処に婆様《ばあさま》が何かして居りますから、
繼「御免なさいまし/\」
男「はい何だえ」
繼「あのお百姓の文吉さんのお宅は此方《こちら》でございますか」
男「あい文吉さんは此方《こっち》だが、何だえ」
繼「あのお婆さんはお達者でございますか、若《も》しお婆さんは亡くなって、伯母さんでございますか」
男「婆《ば》アさま/\巡礼どんが二人来て、婆アさまに逢いたいと云って立ってるだ」
婆「はい何方《どなた》でございます、巡礼どんかえ、修行者が銭を貰いに来たら銭を上げるが宜《よ》い、知ってる人が尋ねて来たかえ」
繼「御免なさいまし、貴方が此方《こちら》のお婆さんでございますか」
婆「はい私《わし》が此処《こゝ》の婆《ばゝ》アでございますよ、あんたア誰だかねえ」
繼「あなたお忘れでございますか、私《わたくし》は湯島六丁目藤屋七兵衞の娘繼と申す者でございます」
婆「あれや何うも魂消《たまげ》たとも、何うも巨《でか》く成ったアなア、まア宜く尋ねて来たアなア、巡礼に成って来ただかえ」
繼「はいお婆さんに逢いたいと思って遠隔《とお/″\》の処を参りました」
婆「まア宜く尋ねて来たよ、是やア誰か井戸へ行って水を汲んで来て……足い洗って上りなよ……おう/\草鞋|穿《ばき》で……汝《われ》話しい聞いた事ア無かっきアが、これア私《わし》の孫だよ、それ江戸へ縁付けて出来《でか》した娘だ……さア足い洗って上るが宜い」
 と云われたから巡礼二人は安心して上へ上り、
繼「御機嫌宜う」
 と挨拶を致しますると、
婆「お前は全く藤屋七兵衞の娘お繼かえ」
繼「はい全くお繼でございます、兄は縁切《えんきり》で此方《こちら》へ預けられた事は承知して居りますが、只今でも達者で居りますか」
婆「はあえ、彼《あれ》は親父の心得違いで女郎《じょうろ》を呼ばったで、違った中だもんだから、虐《いじ》められるのが可愛そうでならなえから、跡目相続の惣領の正太郎だアけれど、私《わし》い方《ほう》へ引取り、音信《いんしん》不通になって、そうしてまア家《うち》い焼けてから跡は打潰《ぶっつぶ》れて麻布へ引込《ひっこ》んだきり行通《ゆきかよ》いしない、後《あと》で聞けば遠い国へ引込んだと云うことで、七兵衞は憎いから心にも掛けなえけれども、己《おれ》ア為には真実の孫のあの娘が継母の手にかゝって居るかと心配して、汝《われ》が事は忘れた日は無いだ…な、え十八だとえ、己《おら》アはア七十の坂を越して斯う遣って居るだけれども、まア用の無いやくざ婆《ばゝあ》だから早く死にたい、厄介のないように眠りたいと思ってるだが、斯うやってまア孫が尋ねて来て顔が見られると思えば、生きて居て有難かっきア……父《ちゃん》は達者かえ」

        五十三

繼「はいそれに就いてはお婆さん種々《いろ/\》訳が有って来ましたが、何卒《どうか》早く兄さんに逢いたいものでございます」
婆「おゝ正太郎かえ、あの正太郎には痩《やせ》るほど苦労をしただ、その訳と云えば、あの野郎を連れて来て堅気《かたぎ》の商人《あきゅうど》へ奉公に遣り、元の様な大《でか》い家《うち》を拵《こしら》えさせたいと思って奉公に遣ると、何処へ遣っても直《すぐ》に駈《か》ん出して惰《なま》けて仕様がない、そうしてる中《うち》に己《おら》あ家でこれ些《ちっ》とべい土蔵という程でもないが、物を入れる物置蔵ア建てようと云って職人が這入《はえ》ってると、その職人と馴染《なじみ》になって職人に成りたいと云うから、それじゃア成んなさいと云うので、京橋の因幡町《いなばちょう》の左官の長八《ちょうはち》と云う家へ奉公に遣っただ、左官でも棟梁になりゃア立派なもんだと云うから、奉公に遣った所が、職人の事だから道楽ぶちゃアがって、然《そ》うして横根を踏出しやアがって、婆《ばア》さま小遣を貸せと云うから、小遣は無いと云うと、それじゃア此の布子《ぬのこ》を貸せと云ってはア何でも持出して遣い果した後《あと》で、何うにも斯うにも仕方が無いが、まア真実の甥《おい》だからと云って文吉も可愛がって居たゞが、嫁の前《めえ》も有るから一寸《ちょっと》小言を云うと、それなり飛出しやアがって、丁度三年越し影も形も見せないから、本当に仕方が無いやくざな野郎になってしまったが、何処へ往《い》きやアがったか、能《よ》く女郎《じょうろ》を買って銭が欲しい所から泥坊に成る者も有るからのう婆様《ばあさま》、と云われる度《たび》に胸が痛くて寧《いっ》そ放《と》ん出さないば宜かったと[#「宜かったと」は底本では「宜かつと」]思ってなア、若《も》しや縄に掛って引かれやアしないかと心配して忘れる事はないだ…何ういう訳だい、巡礼に成って此処《こけ》え来たのは」
繼「はい実はこれ/\/\/\でございまする」
 と涙ながらに、三年|前《あと》の越中の高岡から旅立を致しましてと細かに話をした時は、婆さんも大きに驚いて、親の敵を討とうと云う事なら、手前《てめえ》ばかりではいけない、今に文吉が帰って来れば力に成って、仮令《たとえ》相手は何《ど》んな侍でも文吉が助太刀をして討たして遣るから、決して心配せずに、心丈夫に思って居るが宜《よ》いが、此の連れの方は何ういう人だと問われて、是もこれ/\と身上《みのうえ》を打明けると、婆《ばゝあ》は一通りならぬ喜び、文吉も共に力に成りまして、田舎は親切でございますから、山之助までも大事に致して呉れます。山之助の身の上を聞いて伯父文吉が得心の上、改めて夫婦の盃をさせ内々《ない/\》の婚姻を致させましたから、猶更睦じく両人は毎日葛西の小岩井村を出て、浅草の観音へ参詣を致して、是から江戸市中を流して歩るきます。すると二月から二三四と四月の廿七日迄日々心に掛けて敵の様子を尋ねて居りましたが、頓《とん》と手掛りがございません。少し此の日は空合《そらあい》が悪くてばら/\/\と降出しましたから、毎《いつ》もより早く帰って脚半を取って、山之助お繼が次の間に足を投出して居りまする。すると丁度夕刻|前《ぜん》此の家へ這入って来ましたのは村方のお百姓と見えて、
百「はい御免な
前へ 次へ
全31ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三遊亭 円朝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング