《どころ》じゃア無い何うでも宜しいから早く」
と是れから裾《すそ》を端折《はしょ》って飛出したが、此方《こちら》は余程《よっぽど》刻限が遅れて居ります。お話は元へ戻りまして、お繼が親の敵と切りかけました時は水司又市も驚いて、一間ばかり飛退《とびしさ》って長いのを引抜き、
又「狼藉者[#「狼藉者」は底本では「狼籍者」]め」
と云うと往来の者はどやどや後《あと》へ逃げる、商人家《あきんどや》ではどか/\ッと奥に居たものが店の鼻ッ先へは駈出して見たが、少し怖いから事に依ったら再び奥へ遁込《にげこ》もうと云うので、丁度臆病な犬が魚を狙うようにして見ている。四辺《あたり》は粛然《しん》として水を撒いたよう。お繼は鉄切声《かなきりごえ》、親の敵と呼んで振冠《ふりかぶ》ったなり、面体《めんてい》も唇の色も変って来る。然《そ》うなると女でも男でも変りは無いもので、
繼「私を見忘れはすまい、藤屋七兵衞の娘お繼だ、汝《てまえ》は永禪和尚で、今は櫻川又市と云おうがな」
と云う其の声がぴんと響く。その時に少し後《あと》へ下《さが》って又市が、
又「何だ覚えはないわ、左様な者でない」
とは云っても覚えが有るものでございますから、其所《そこ》は相手が女ながらも心に怯《おく》れが来て段々後へ下る。すると段々見物の人が群《たか》って、
甲「何でげす」
乙「今私は瀬戸物屋へ買物に来て見ていると、だしぬけに親の敵と云うから、はッと跡へ下ろうと思うと、はッと土瓶を放したから、あの通り石の上へ落ちて毀《こわ》れてしまいました、あゝ驚きました、何うも彼《あ》の娘でげすな」
甲「へえ彼の娘が敵討だと云って立派な侍を狙うのですか、感心な娘で、まだ十七八で美《い》い女だ、今は一生懸命に成ってるから[#「成ってるから」は底本では「成ってるらか」]顔つきが怖いが、彼《あ》れが笑えば美い女だ」
乙「へえ、それは感心、あゝ云う巡礼の姿に成って居るが、やっぱり旗下《はたもと》のお嬢様か何かで、剣術を知らんでは彼《あ》の大きな侍に切掛けられアしない、だが女一人じゃア危ないなア、誰か出れば宜《い》いなア」
丙「危ないから無闇に出る奴は有りやアしません」
甲「だって向うは大きな侍、此方《こっち》はか弱い娘で……あゝけんのんだ」
と見物がわい/\と云う。
丙「おい早く差配人《おおや》さんへ知らせろ」
丁「おれの差配人さんでは間に合わない、何処《どこ》の差配人さんへ然《そ》う云うのだ」
丙「差配人さんが間に合わぬなら自身番へ知らせろ……あッあー…危ねえ/\敵討は何とか云いましたか」
乙「何と云ったか聞えやアしない」
乙[#「乙」はママ]「何とか云ったッけ、汝《なんじ》を討たんと十八年」
甲「何を云やアがる騒々しい喋っちゃアいけねえ」
丙「あゝ危ねえ/\」
と拳《こぶし》を握って見ている、人は人情でございますから、何うぞして娘に勝《かた》せたい、娘に怪我をさしたくないと見ず知らずの者も心配して、橋の袂《たもと》に一抔人が溜《たま》って居りますが、中々助太刀に出る者は有りません。
甲「向うに侍が二人立って見ているが、彼奴《あいつ》が助太刀に出そうなもんだ、何だ覗いて居やアがる、本当に不人情な侍だ、あの畜生《ちきしょう》打擲《ぶんなぐ》れ」
とわい/\云う中《うち》に、
繼「親の敵思い知ったか」
と一足《ひとあし》踏込んで切下《きりおろ》すのを、ちゃり/\と二三度合せたが、一足|下《さが》って相上段《あいじょうだん》に成りました。よく上段に構えるとか正眼《せいがん》につけるとか申しますが、中々剣術の稽古とは違って真剣で敵を討とうという時になると、只斬ろうという念より外《ほか》はございませんから、決して正眼だの中段などという事はない、唯双方相上段に振上げて斬ろう/\と云う心で隙《すき》を覘《うかゞ》う、水司又市も眼《まなこ》は血走って、此の小娘《こあま》只一|撃《うち》と思いましたが、一心|凝《こ》った孝女の太刀筋《たちすじ》、此の年四月から十月まで習ったのだが一生懸命と云うものは強いもので、少しも斬込む隙がないから、此奴《こいつ》中々剣術が出来る奴だなと思い、又市も油断をしませんで隙が有ったら逃げようかなんと云う横着な根生《こんじょう》が出まして、後《あと》へ段々|下《さが》る、此方《こちら》も油断はないけれども年功がないのはいかぬもので、段々|呼吸遣《いきづか》いが荒くなって労《つか》れて来るから最早死物狂いで、
繼「思い知ったか又市」
と飛込んで切込むのを丁と受け、引く所を附け入って来るから、一足《ひとあし》二足《ふたあし》後へ下ると傍《そば》の粘土《ねばつち》に片足踏みかけたから危ういかな仰向《あおむけ》にお繼が粘土の上へ倒れる所を、得たりと又市が振冠《ふりかぶ》って一打《ひ
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