ります、此方へお這入りなさい」
山「はい、あなたは何でございますか、額に疵がございますか」
太「何だ……左様でござる、手前は額に疵も有りますが、何方でげすえ」
山「えゝ、元は榊原様の御家来で、お年は四十一でいらっしゃいますか」
太「なんだ……はい私《わし》の年まで知っていて、面部《おもて》に疵が有ると仰しゃるのは何方《どちら》のお方でございますえ」
山「お名前は水司又市でございますか」
太「はい何方《どなた》だえ」
 と水司又市と云う名を聞くや否や山之助は一刀を抜くより早く、がらり障子を明けながら、
山「姉の敵い…」
 と一声《ひとこえ》一生懸命の声を出して無茶苦茶に切込んで来る。続いてお繼が、
繼「おのれ親の敵覚悟をしろ」
 と鉄切声《かなきりごえ》を出した時には不意を打たれて驚きましたが、
太「これ何を致す、人違いをするな」
 と云いながら傍《そば》に有りました今戸焼の蚊遣火鉢を取って打付《ぶッつ》けると、火鉢は山之助とお繼の肩の間をそれて向うの柱に当って砕け、灰は八方に散乱する。また山之助の突掛《つきか》ける所を引外《ひっぱず》して釣瓶形《つるべがた》の煙草盆を投付け、続いて湯呑茶碗を打付《ぶッつ》け小さい土瓶を取って投げる所を、横合《よこあい》からお繼が、親の敵覚悟をしろと突掛けるのを身を転《かわ》して利腕《きゝうで》を打つと、ぱらり持っていた刃物を落し、是はと取ろうとする所を襟上《えりがみ》を取って膝の下へ引摺寄せる、山之助は此所《こゝ》ぞと切込みましたが、此方《こちら》は何分手ぶらで居った所、幸いお繼が取落した小刀《しょうとう》が有ったからそれを取って、
太「これ怪我を致すな、人違いを致すな、宜く心を静めて面体《めんてい》を見ろ、人違い/\」
 と二三度打流したが、相手の方から無二無三に打って掛るから、
太「これ人違いを致すな」
 と払い除けました、其の切尖《きっさき》が山之助の肩先に当ると、腕が利いて居る、余程深く斬込みました。
山「あア」
 どんと山之助が臀餅《しりもち》をついたなり起上る事が出来ません、山之助が斬られたのを見るとお繼が
「わーっ」
 と其の場に泣倒れました。
太「これ何処《どこ》へ参って居《お》るかな、これ照や、狼藉者[#「狼藉者」は底本では「狼籍者」]が這入ったが、何処へ参って居《い》るか、これ早く燈光《あかり》を持って参れ、燈光を……」
 此の時女房は裏の井戸端で米を磨《と》いで居りました。じゃ/\/\/\と米を磨いで居り、余程|家《うち》から離れて居りまするから、右の騒ぎは聞えませんだったが、大声で呼びましたから、何事かと思って慌《あわ》てゝ家へ這入って見ると右の始末、
照「おや何う…」
太「何うたって今狼藉者[#「狼藉者」は底本では「狼籍者」]が這入ったのだ、何分暗くって分らぬから早く燈光を点《つ》けて来い」
 と云われて、女房は慌てながら火打箱でかち/\/\/\。

        五十六

 お照は火を打つ所が、慌てるから中々|点《つ》かないのを漸《ようよ》うの事で蝋燭を点《とも》して、
照「何うしたの」
 と見ると若い男が一人血に染って倒れて居り、また一人の娘を膝の下へ引敷いて居りますから。
照「こりゃアまア何でございます」
太「何だって今此の狼藉者[#「狼藉者」は底本では「狼籍者」]が這入ったのだ…さこれ能《よ》く面体《めんてい》を見ろ、人違いを致すな、己は人を害《あや》めた覚えも無し、敵と呼ばれて打たれる覚えも無い、これ面《おもて》を見ろ、心を静めて面を見ろ」
 と云われたから、山之助が漸うに起上って燈火《あかり》で顔を見ると、成程|年齢《としごろ》は四十一二にして色白く、鼻筋通り、口元が締って眉毛の濃い、散髪の撫付《なでつけ》で、額から小鬢《こびん》に掛けて疵《きず》が有りますなれども、能く見ると顔形《かおかたち》が違って居りまする故、
山「あゝ是は人違いをした」
 と思うと、
太「何うじゃ、違って居《お》ろうな」
山「はい誠に申訳がございません、全く人違いでございます」
照「人違いで敵だと云って斬込むとは人違いにも程がある、何ぼ年が行《い》かぬと云って、斬ってしまった後《あと》で人違いで済みますか、良人《あなた》はお怪我は有りませんか」
太「そんな事を云わんでも宜《よ》い、早く其処《そこ》らに散乱して居る火を消せ」
 と云われて御新造《ごしんぞ》が柄杓に水を汲んで蚊遣の火が落ちた処に掛けると、ちゅうぶうと云う大騒ぎ。此の時まで只泣いて居て口の利けぬのはお繼で、今燈火の影で山之助が血に染って居《い》る姿を見て、
繼「山之助さん確《しっ》かりして下さいよ……全く人違いでございますから、何《ど》の様《よう》にもお詫《わび》をいたしますが、何卒《どうぞ》お医者様を呼んでお手当を願
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