うと下《さが》りまして、呆れて又市の顔を見て居りました。
又「怖がって逃げんでも宜《え》いじゃないか」
やま「あらまア貴方《あなた》御冗談ばかり仰しゃって困りますよ」
又「困る訳はない、宜《よ》いじゃアないか、えゝ只《たっ》た一度でもお前|私《わし》の云う事を聴いて呉れたら、お前の為には何《ど》の様《よう》にも情合《じょうあい》を尽そうと思うて居る」
やま「御冗談でございましょう、貴方の様な方が私《わたくし》の様な者にそんな事を仰しゃっても私は本当とは思いません」
又「何故《なぜ》、私《わし》は年を取って冗談やおどけにお前さん此様《こん》な事を言掛ける事はない、お前さん、実は疾《と》うから真に想うても云出し兼ていたが、酔うた紛れに云うじゃアないけれども、お前さん私は只《たっ》た一度で諦めますぜ」
やま「あなた本当に仰しゃるのですか」
又「本当だって今まで如何《いか》にも好《よ》い娘じゃアと思うても色気も何も出やアせぬが、けれども朝夕膏薬を貼替えて呉れる其の優しい手で額を斯《こ》う押えて呉れまする、其のどうも手当に私《わし》は惚れた、さア最う斯う云い出したら恥も外聞もないじゃア、誰《たれ》も居《お》らぬは幸いじゃア、只《たっ》た一度で諦めるから」
やま「あら呆れたお方様で、それでは折角の貴方御親切も水の泡になります、伯父も彼様《あん》なお方はない、額に疵《きず》を受けるまで命懸で助けて下すったから、その御恩を忘れては済まないよと伯父も申しますから、私《わたくし》も有難いお方と存じて居りまして、実に届かぬながらお世話致します心得でございますに、そんな事を仰しゃって下さると実に腹が立ちます」
又「腹が立ちますと云ったって、恩義に掛けるわけではないが、けれども、宜《よ》いじゃアないか、私《わし》も命懸で彼処《あすこ》へ這入って助け、私が通り掛らぬ時は、悪者に押え付けられて、否《いや》でも応でも三人のため瑕瑾《きず》が付くじゃアないか、それを助けて上げたから、彼処で□□□□れたと思うて素性の知れた私に一度ぐらい云う事を聴いても宜いじゃアないか」
やま「貴方にはお内儀《かみさん》がお有んなさるではございませんか」
又「女房は有りやせん」
やま「あら惠梅様は貴方のお内儀でございます、お比丘尼様に済みませんから貴方の側へは参りません」
又「比丘だって彼《あ》れは女房ではない、彼れは山口の薬師堂に居た時に私《わし》は寺男に這入ったので」
やま「それでも夜分は一緒に御寝《げし》なるじゃアございませんか」
又「御寝なるたって彼奴《あいつ》が薬師堂に居た時、私《わし》は奉公に這入ったが、彼奴も未だ老朽《おいくち》る年でもないから、肌寒いよって、この夜着の中へ這入って寝ろと云うので、拠《よんどこ》ろなく這入って寝たが、婆ア比丘尼じゃアから厭で/\ならん、お前がうんと云うてくれゝば、惠梅に別れて、私は此処《こゝ》の家へ這入って働き男になり、牛《うし》馬《うま》を牽《ひ》いたり、山で麁朶《そだ》をこなし、田畑へ出て鋤《すき》鍬《くわ》取っても随分お前の手助けしようじゃアないか、然《そ》うして置いて下さい」
やま「そんな事を仰しゃっては困ります、それでは明日《あした》にも直《すぐ》にお発足《たち》遊ばして下さい、私《わたくし》は御恩になったお方ゆえ大事と思うから手厚くお世話をするのでございます、それを恩に掛けるなれば、私も随分貴方へ御恩報じと思って出来ないながらも看病して居る心得でございます、はい」
又「お前のように堅く出られては面白くない、そんな事を云わずに」
と無理遣りに手を取って引寄せまする。この時は腹が立ちますから殴付《はりつ》けてやりたいと思うが、そこは命を助けられた恩義が有るから、余り無下にしても愛想尽《あいそうづか》し気の毒と存じまして、おやまは何うしようかともじ/\して居ります。
三十九
又市は増長して無理に引付け、髯《ひげ》だらけの頬片《ほうぺた》をおやまに擦《こす》り付けようとする処《ところ》へ、帰って来たは惠梅に山之助でございますが、山之助は気の毒だから後《あと》へ下《さが》る。惠梅は腹を立って、麁朶《そだ》を持って二三度続けて殴ったから胆《きも》を潰《つぶ》して、
又「いや帰ったか」
梅「まことに呆れてしまって……おやまさん、さぞ腹が立ちましたろう、私も恟《びっく》りしました、山之助さんにも誠にお気の毒で、お前さん何をするのだよ、おやまさんにさ」
又「誠に困ったなア、今御馳走が出たので一杯|遣《や》った処《ところ》、つい酔うてそのな、酒を飲めば若い女子《おなご》に冗談をするは酒飲《さけのみ》の当り前だ、突然《いきなり》打《ぶ》ちやアがって、打たんでも宜《え》いわ」
梅「おやまさんお腹も立ちましたろうが堪忍して下
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