心眼
三遊亭円朝
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)外題《げだい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五|色《しき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「睹のつくり/火」、第3水準1−87−52]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)フン/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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さてこれは外題《げだい》を心眼《しんがん》と申《まう》す心の眼《め》といふお話でござりますが、物の色を眼《め》で見ましても、只《たゞ》赤《あかい》のでは紅梅《こうばい》か木瓜《ぼけ》の花か薔薇《ばら》か牡丹《ぼたん》か分《わか》りませんが、ハヽア早咲《はやぎき》の牡丹《ぼたん》であるなと心で受けませんと、五|色《しき》も見分《みわけ》が付《つ》きませんから、心眼《しんがん》と外題《げだい》を致しましたが、大坂町《おほさかちやう》に梅喜《ばいき》と申《まう》す針医《はりい》がございましたが、療治《れうぢ》の方《はう》は極《ごく》下手《へた》で、病人に針《はり》を打ちますと、それがためお腹《なか》が痛くなつたり、頭痛の所へ打ちますと却《かへつ》て天窓《あたま》が痛んだり致しますので、あまり療治《れうぢ》を頼《たの》む者はありません。すると横浜《よこはま》の懇意《こんい》な人が親切に横浜《よこはま》へ出稼《でかせ》ぎに来《く》るが宜《い》い、然《さ》うやつてゐては何時《いつ》までも貧乏してゐる事では成《な》らん、浜《はま》はまた贔屓強《ひいきづよ》い処《ところ》だからと云《い》つてくれましたので、当人《たうにん》も参《まゐ》る気になりましたが、横浜《よこはま》へ参《まゐ》るには手曳《てひき》がないからと自分の弟の松之助《まつのすけ》といふ者を連《つ》れまして横浜《よこはま》へまゐりまして、野毛《のげ》の宅《うち》へ厄介《やつかい》になつて居《を》り、せめて半年か今年一年|位《ぐらゐ》稼《かせ》いで帰《かへ》つて来《く》るだらうと、女房《にようばう》も待つて居《を》りますと、直《すぐ》に三日目に帰《かへ》つてまゐりました。鼻の尖頭《あたま》へ汗をかき、天窓《あたま》からポツポと煙《けむ》を出し、門口《かどぐち》へ突立《つツた》つたなり物も云《い》ひません。女房「おやお前《まへ》お帰《かへ》りか。梅「い……今|帰《かへ》つたよ。女房「おや何《ど》うしたんだね、まア何《ど》うも余《あんま》り早いぢやアないか、浜《はま》へ往《い》つて直《す》ぐに帰《かへ》つて来《き》たの。梅「直《す》ぐにたツて居《ゐ》られねえもの、どうも幾許《いくら》居《ゐ》たくつても居《ゐ》られません、あまり馬鹿馬鹿《ばかばか》しくつて口惜《くや》しいたツて口惜《くや》しくねえたツて耐《たま》らないもの……。と鼻息《はないき》荒《あら》く思ふやうに口もきけん様子。女房「何《ど》うしたんだねえ、まア何《なん》だね。梅「何《ど》うしたつて、フン/\あの松《まつ》ン畜生《ちくしやう》め……。女房「松《まつ》さんが何《ど》うしたんだえ。梅「彼奴《あいつ》が、己《おれ》を置去《おきざ》りにして先へ帰《けへ》りやアがつたが、岩田屋《いはたや》さんは親切だから此方《こつち》へ来《き》な、浜《はま》は贔屓強《ひいきづえ》えから何《なん》でも来《き》ねえと仰《おつ》しやるので、他《ほか》に手曳《てひき》がねえから松《まつ》を連《つ》れていくと、六|畳《でふ》の座敷《ざしき》を借切《かりき》つてゐると、火鉢《ひばち》はここへ置《お》くよ、烟草盆《たばこぼん》も置《お》くよ、土瓶《どびん》も貸《か》してやる、水指《みづさし》もこゝに有《あ》るは、手水場《てうづば》へは此処《こゝ》から往《い》くんだ、こゝへ布巾《ふきん》も掛《か》けて置《お》くよ、この戸棚《とだな》に夜具《やぐ》蒲団《ふとん》もあるよと何《なに》から何《なに》まで残《のこ》らず貸《か》して下《すだ》すつてよ、往《い》つた当座《たうざ》だから療治《れうぢ》はないや、退屈《たいくつ》だらうと思つて岩田屋《いはたや》の御夫婦《ごふうふ》が来《き》て、四方山《よもやま》の話をして居《を》ると、松《まつ》が傍《そば》で土瓶《どびん》をひつくりかへして灰神楽《はいかぐら》を上《あ》げたから、気《き》を附《つ》けろ、粗忽《そこつ》をするなつて他人《ひと》さまの前《まへ》だから小言《こごと》も云《い》はうぢやアねえか、すると彼奴《あいつ》が己《おれ》にむかツ腹《ぱら》ア立《た》つて、よく小言《こごと》をいふ、兄振《あにいぶ》つたことを云《い》ふな、己《おれ》が手を曳《ひ》いてやらなけりやア何処《どこ》へも往《い》かれめえ、御飯《おまんま》の世話《せわ》から手水場《てうづば》へ往《い》くまで己《おれ》が附《つ》いてツてやるんだ、月給《げつきふ》を取るんぢやアなし、何《な》んぞと云《い》ふと小言《こごと》を云《い》やアがる、兄《あにき》もねえもんだ、兄《あにき》(狸《たぬき》)の腹鼓《はらつゞみ》が聞いて呆《あき》れると吐《ぬか》しやアがるから、やい此《こ》ン畜生《ちくしやう》、手前《てめえ》は懶惰者《なまけもん》でべん/\と遊んでゐるから、何処《どこ》へ奉公《ほうこう》に遣《や》つたつて置いてくれる者もないから、己《おれ》が養《やしな》つて置くからには、己《おれ》の手を曳《ひ》くぐらゐは当然《あたりまい》だ、何《なに》を云《い》やアがるつて立上《たちあが》つて戸外《そと》へ出たが、己《おれ》も眼《め》が見えないから追掛《おつか》けて出ても仕様《しやう》はなし、あんな奴《やつ》にまで馬鹿《ばか》にされると腹を立つのを、岩田屋《いはたや》の御夫婦《ごふうふ》が心配して、なに松《まつ》さんだつて家《うち》へ帰《かへ》れば姉《あね》さんに小言《こごと》を云《い》はれるから、帰《かへ》つて来《く》るに違《ちが》ひない、なに彼奴《あいつ》は銭《ぜに》を持《も》つてゐる気遣《きづか》ひは有《あり》ませんから、停車場《ステイシヨン》へ往《い》つたツて切符を買ふ手当《てあて》もありませんから、いまに帰《かへ》りませうと待つたが、帰《かへ》つて来《こ》ねえ、処《ところ》で悪い顔もしず、御飯《ごはん》の世話《せわ》から床《とこ》の揚下《あげおろ》しまで岩田屋《いはたや》さん御夫婦《ごふうふ》が為《し》て下《くだ》さるんだが、宜《い》い気《き》になつて其様《そん》なことがさせられるかさせられねえか考へて見ねえ、とてもそれなりに世話《せわ》に成《な》つてもゐられねえから帰《かへ》つて来《き》たのよ。女房「本当《ほんたう》に困るぢやアないかね、私《わたし》も義理《ぎり》ある間《なか》だから小言《こごと》も云《い》へないが、たつた一人の兄《にい》さんを置去《おきざ》りにして帰《かへ》つて来《く》るなんて……なに屹度《きつと》早晩《いま》にぶらりと帰《かへ》つて来《く》るのが落《おち》だらうが、嚥《さぞ》腹が立つたらうね。梅「腹が立つたつて立たねえツてえ、詰《つま》らねえ事《こと》を腹ア立てやアがつて、たつた一人の血を分けた兄の己《おれ》を置去《おきざ》りにしやアがつてよ、是《こ》れと云《い》ふのも己《おれ》の眼《め》が悪いばつかりだ、あゝ口惜《くや》しい、何《ど》うかしてお竹《たけ》や切《せ》めて此《こ》の眼《め》を片方《かた/\》でも宜《い》いから明けてくんなよ。女房「明けてくんなと云《い》つて、私《わたし》ア医者《いしや》ぢやアなし、そんな無理なことを云《い》つたツて私《わたし》がお前《めへ》の眼《め》を明《あけ》る訳《わけ》にはいかないが、苦しい時の神頼《かみだの》みてえ事も有るから、二人で信心《しん/″\》をして、一生懸命になつたら、また良《い》いお医者《いしや》に出会《であ》ふことも有らうから、夫婦で茅場町《かやばちやう》の薬師《やくし》さまへ信心《しん/″\》をして、三七、二十一|日《にち》断食《だんじき》をして、夜中参《よなかまゐ》りをしたら宜《よ》からう。と是《これ》から一生懸命に信心《しん/″\》を始めました。すると一心《いつしん》が通《とほ》りましてか、満願《まんぐわん》の日に梅喜《ばいき》は疲れ果てゝ賽銭箱《さいせんばこ》の傍《そば》へ打倒《ぶつたふ》れてしまふ中《うち》に、カア/\と黎明《しのゝめ》告《つぐ》る烏《からす》諸共《もろとも》に白々《しら/\》と夜《よ》が明け離《はな》れますと、誰《たれ》やらん傍《そば》へ来《き》て頻《しき》りに揺《ゆ》り起《おこ》すものが有ります。×「梅喜《ばいき》さん/\、こんな処《ところ》に寐《ね》て居《ゐ》ちやアいけないよ、風《かぜ》え引くよ……。梅「はい/\……(眼《め》を擦《こす》り此方《こつち》を見る)×「おや……お前《まい》眼《め》が開《あ》いたぜ。梅「へえゝ……成程《なるほど》……是《これ》は……あゝ(両手《りやうて》を合《あは》せ拝《をが》み)有難《ありがた》う存《ぞん》じます、南無薬師瑠璃光如来《なむやくしるりくわうによらい》、お庇陰《かげ》を以《も》ちまして両眼《りやうがん》とも明《あきら》かになりまして、誠に有難《ありがた》う存《ぞん》じます……成程《なるほど》ウ是《これ》は手でございますか。×「然《さ》うよ。梅「へえゝ巧《うま》く出来《でき》てゐますね。×「お前《まへ》何《ど》うして眼《め》が明《あ》いたんだ。梅「へえ実《じつ》は二十一|日《にち》断食《だんじき》をしました、一|心《しん》が届《とゞ》いたものと見えます。×「ムヽウ、まゝ此位《このくらゐ》な目出度《めでた》い事はないぜ。梅「へえ誠に有難《ありがた》う存《ぞん》じます……あなたは何方《どちら》のお方《かた》で。×「フヽヽ何方《どちら》だつて、お前《まへ》毎日《まいにち》のやうに宅《うち》へ来《き》てえるぢやアねえか、大坂町《おゝさかちやう》の近江屋金兵衛《あふみやきんべゑ》だよ。梅「へえ、是《これ》は何《ど》うも誠にへえゝ……あなたは其様《そん》なお顔でございましたか。近江屋「フヽヽ其様《そん》なお顔と云《い》ふものもねえもんぢやアねえか、何《なに》にしても眼《め》の明《あ》いたは共に悦《よろこ》ばしい、ま結構《けつこう》な事で。梅「へえ有難《ありがた》う存《ぞん》じます、毎度また御贔屓《ごひいき》になりまして……これは何《なん》です、一|体《たい》にかう有《あ》るのは……。近江屋「成程《なるほど》な、眼《め》のない人が始めて眼《め》の明《あ》いた時には、何尺《なんじやく》何間《なんげん》が解《わか》らんで、眼《め》の前《さき》へ一|体《たい》に物《もの》が見《み》えると云《い》ふが、妙《めう》なもんだね、是《これ》は薬師《やくし》さまのお堂《だう》だよ。梅「へえゝ、お堂《だう》で、是《これ》は……。近江屋「お賽銭箱《さいせんばこ》。梅「成程《なるほど》皆《みん》ながお賽銭《さいせん》を上《あ》げるんで手を突込《つツこ》んでも取れないやうに…巧《うま》く出来《でき》て居《ゐ》ますなア…あの向《むか》うに二つ吊下《ぶらさが》つて居《ゐ》ますのは…。近江屋「あれは提灯《ちやうちん》よ。梅「家内《かない》などが夜《よる》点《つけ》て歩きますのは彼《あ》れでげすか。近江屋「なに、それはもつと小さい丸いので、ぶら提灯《ぢやうちん》といふのだが、あれは神前《しんぜん》へ奉納《ほうなふ》するので、周囲《まはり》を朱《あか》で塗《ぬ》り潰《つぶ》して、中《なか》へ墨《くろ》で「魚《うを》がし」と書いてあるのだ、周囲《まはり》は真《ま》ツ赤《か》中《なか》は真《ま》ツ黒《くろ》。梅「へえゝ真《ま》ツ赤《か》……真《ま》ツ黒《くろ》旨《うま》く名《つ》けましたな、成程《なるほど》真《ま》ツ赤《か》らしい色で……彼《あ》れは。近江屋「彼家《あれ》は宮松《
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