めたが宜《よ》かろうとか、寒いから質に入れてある布子《ぬのこ》を出して来たら宜かろうと、母子《おやこ》三人が旱魃《かんばつ》に雨を得たような、心持《こゝろもち》になり、久し振で汚れない布子を被《き》て、重二郎が茅場町の薬師へお礼参りにまいりました。丁度十二月の三日の夕方でございます。薬師様のお堂へまいり、柏手《かしわで》を打って頻《しき》りに母の眼病平癒を祈り、帰ろうといたしますと、地内《じない》に宮松《みやまつ》という茶屋があります。是《こ》れは棒の時々飛込むような、怪しい茶屋ではありません。其処《そこ》から出て来た女は年頃三十八九で色浅黒く、小肥《こぶと》りに肥《ふと》り、小ざっぱりとした装《なり》をいたし人品《じんぴん》のいゝ女で、ずか/\と重二郎の傍《そば》へ来て、
女「もし貴方《あなた》はあのなんでございますか、あの清水重二郎様と仰《おっ》しゃいますか」
重「はい私《わし》は清水重二郎でございますが、あなたは何処《どこ》のお方ですか」
女「あのお手間は取らせませんから、ちょっと此の二階までいらっしって下さいまし」
重「はい、なんでがんすか、私《わし》ア急ぎやすが、何処《どこ》のお方でがんすえ」
女「いえ、春見のお嬢様でございますが、一寸《ちょっと》お目にかゝりお詫《わ》び事《ごと》をしたいと仰しゃってゞすが、お手間は取らせませんから、ちょっと此の二階へお上《あが》んなさいましよ」
重「先達《さきだっ》ては御恵《おめぐ》みを受け、碌々《ろく/\》お礼も申上げやせんでしたが、今日は少々急ぎますから」
 と云いながら往《ゆ》きにかゝるを引き留め。
女「お急ぎでもございましょうが、まアいらっしゃいまし」
 と無理に手を取って、宮松の二階へ引上げました、重二郎も三円貰った恩義がありますから、礼を云おうと思ってまいりました。
女「此方《こちら》へお這入《はい》んなさいまし」
 と云われ重二郎は奥の小座敷へ這入ると、文金《ぶんきん》の高髷《たかまげ》に唐土手《もろこしで》の黄八丈《きはちじょう》の小袖《こそで》で、黒縮緬《くろちりめん》に小さい紋の付いた羽織を着た、人品《じんぴん》のいゝ拵《こしら》えで、美くしいと世間の評判娘、年は十八だが、世間知らずのうぶな娘が、恥かしそうにちょい/\と重二郎の顔を見ては下を俯《む》いて居まして、
いさ「此方《こちら》へお這入り遊ばしまし、どうぞ/\此方へ」
重「此間《こないだ》は私《わし》お宅《たく》へ出やした時、あなたが可愛相《かわいそう》だと云って金をお恵み下され、早速《さっそく》お返し申そうと思いましたが、いまだにお返《けえ》し申す時節がまいりません、どうか遅くも押詰《おしつま》りまでには御返金致します心持ちで、お礼にも出ませんでした」
い「此間《こないだ》は折角お出《い》で遊ばしましたが、父はあの通り無愛相《ぶあいそう》ものですからお前さんにお気の毒な、まア素気《そっけ》ない事を申しましたから嘸《さぞ》お腹が立ちましたろうと、実は蔭《かげ》でお案じ申して居りましたが、今日は貴方《あなた》が薬師様へお参りに入《いら》っしゃるという事を聞きましたから、兼《かね》と二人で、のう兼」
兼「本当でございますよ。お嬢様が貴方のことを案じて、何《ど》うかして何処《どこ》かでお目にかゝりたいもんだが、何うしたら宜《よ》かろうかといろ/\私にお聞きなさいますから、私も困りましたが、貴方のお宅の近所で聞いたら、貴方は間《ま》さえあれば薬師様へお参りにいらっしゃるとの事ゆえ、今日は貴方のお参りにいらっしゃるお姿をちらりと見ましたから、駈けて帰り、宅《うち》の方は宜《よ》いようにして、お嬢様と一緒に先刻から此処《こゝ》にまいって待って居りましたが、本当に宜くいらっしゃいました、嬢さまが頻《しき》りに心配なすっていらっしゃいますよ」
い「兼や、あの御膳《ごぜん》を」
 と云えば、おかねはまめまめしく。
兼「あなたお急ぎでございましょうが、嬢さまが一《ひ》と口《くち》上げて、御膳を上げたいと仰《おっ》しゃいますから」
重「私《わしゃ》アお飯《まんま》はいけません、お母《ふくろ》が待って居ますから直《す》ぐに帰《けえ》ります」
兼「なんでございますねえ、本当にお堅いねえ、嬢様が余程《よっぽど》なんしていらっしゃいますのに、貴方お何歳《いくつ》でいらっしゃいますえ」
重「私《わしゃ》ア二十三でございます」
か「本当に御孝行ですねえ、嬢様は貴方の事ばかり云っていらっしゃいますよ、そうして嬢様はひとさわがしいがや/\した事はお嫌いで、余所《よそ》の姉《ねえ》さん達のように俳優《やくしゃ》を大騒ぎやったりする事はお嫌いで、貴方の事ばかり云っていらっしゃいますから、本当に貴方、嬢様を可愛《かわい》そうだと思って、お参りにお出《い》でのたびに一寸《ちょっと》逢って上げて下さい、此方《こっち》でも首尾《しゅび》して待って居りますから、それも出来ずば、月に三度|宛《ずつ》も嬢様に逢って上げてくださるように願います」
重「とんでもない事を仰しゃいます、お嬢様は御大家《ごたいけ》の婿取《むこと》り前の独《ひと》り娘、私《わしゃ》ア賤《いや》しい[#「賤しい」は底本では「践しい」と誤記]身の上、たとえ猥《いや》らしい事はないといっても、男女《なんにょ》七歳にして席を同じゅうせず、今|差向《さしむか》いで話をして居《い》れば、世間で可笑《おか》しく思います、若《も》し新聞にでも出されては私ア宜《よ》うがんすが、あなたはお父様《とっさま》へ御不孝になりやんすから、そんな事の無い内に私ア帰《けえ》ります」
兼「あなた、お厭《い》やなら仕方がありませんが、嬢様|何《なん》とか仰《おっ》しゃいな、何故《なぜ》此方《こっち》へお尻を向けていらっしゃいます、宅《うち》でばかり斯《こ》う云おう、あゝ云おうと仰しゃって本当に影弁慶《かげべんけい》ですよ、そうして人の前では何も云えないで、私《わたくし》にばかり代理を務《つと》めさせて、ほんとうに困りますじゃア有りませんか、ようお嬢様」
い「誠に申しにくいけれども、どうか御膳《ごぜん》だけ召上ってください、若《も》しお厭《い》やならばお母様《っかさま》はお加減が悪くていらっしゃるから、お肴《さかな》を除《の》けて置いて、あのお見舞に上げたいものだねえ」
兼「あなた召上らんでも、お帰りの時重箱は面倒だから、折詰《おりづめ》にでもして上げましょう、嬢様お話を遊ばせ、私は貴方《あなた》のお母《っか》さんのお眼の癒《なお》るよう、嬢様の願いの叶《かな》うように、一寸《ちょっと》薬師様へお代参《だいさん》をして、お百度を五十度ばかりあげて帰ってまいって、まだ早い様なれば、又五十度上げて来ます、直《す》ぐに往って来ます」
 と仲働《なかばたらき》のお兼が気をきかし、其の場を外《はず》して梯子《はしご》を降りる、跡には若い同士の差向《さしむか》い、心には一杯云いたい事はあるが、おぼこ気《き》の口に出し兼ね、もじ/\して居ましたがなに思いましたか、おいさは帯の間《あいだ》へ手を入れて取出す金包《かねづゝみ》を重二郎の前に置き。
い「重さん、これは誠にお恥かしゅうございまして、少しばかりでございますが、お母《っか》さまが長い間お眼が悪く、貴方《あなた》も御苦労をなさいますと承わりましたから、お足《た》しになるようにと思いますが、思うようにも行届《ゆきとゞ》きませんが、これでどうぞ何かお母さんのお口に合った物でも買って上げて下さいまし、ほんの少しばかりでございますが、お見舞の印《しるし》にお持ちなすって下さいまし」
重「へい/\此間《こないだ》はまア三円戴き、それで大《おお》きに私《わし》も凌《しの》ぎを附けやしたが又こんなに沢山金を戴いては私済みやせんから、これを戴くのは此間の三円お返し申した上のことゝ致しましょう」
い「そんなことを仰しゃいますな、折角持って来たものですからどうか受けてください、お恥かしい事でございますが、私《わたくし》は貴方《あなた》を心底《しんそこ》思って居りまして済みません、あなたの方《ほう》では御迷惑でも、それは兼が宜《よ》く存じて居ります、此の間《あいだ》お別れ申した日から片時《かたとき》も貴方の事は忘れません」
 と云いながら指環《ゆびわ》を抜取りまして、重二郎の前へ置き。
い「これは詰らない指環でございますが、貴方《あなた》どうぞお嵌《は》めなすって、そうして貴方の指環を私《わたくし》にくださいまし、あなた若《も》し嵌めるのがお厭《い》やなら蔵《しま》って置いてくださいまし、私は何も知りませんが、西洋とかでは想った人の指環を持って居《お》れば、生涯其の人に逢う事がなくても亭主と思って暮すものだと申します、私はほんとうに貴方を良人《おっと》と思って居りますから、どうぞこれを嵌めてください」
 と恥かしい中から一生懸命に慄《ふる》えながら、重二郎の手へ指環を載せ、じっと手を握りましたが、此の手を握るのは誠に愛の深いもので、西洋では往来で交際の深い人に逢えば互《たがい》に手を握ります、追々《おい/\》開《ひら》けると口吸《こうきゅう》するようになると云いますが、是は些《ち》と汚《きたな》いように存じますが、そうなったら圓朝などはぺろ/\甞《な》めて歩こうと思って居ります。今おいさにじっと手を握られた時は、流石《さすが》に物堅き重二郎も木竹《きたけ》では有りませんから、心嬉しく、おいさの顔を見ますと、蕾《つぼみ》の花の今|半《なか》ば開《ひら》かんとする処へ露《つゆ》を含んだ風情《ふぜい》で、見る影もなき重二郎をば是ほどまでに思ってくれるかと嬉しく思い、重二郎も又おいさの手をじっと握りながら、
重「おいさゝん、今|仰《おっ》しゃった事がほんとうなら飛立《とびた》つ程嬉しいが、只今も申す通り、私《わし》は今じゃア零落《おちぶ》れて裏家住《うらやずま》いして、人力を挽《ひ》く賤《いや》しい身の上、お前さんは川口町であれだけの御身代のお嬢様釣合わぬは不縁の元、迚《とて》もお父《とっ》さんが得心して女房《にょうぼ》にくれる気遣《きづか》いもなければ、又私が母に話しても不釣合《ふつりあい》だから駄目だと云って叱られます、姉も堅いから承知しますめえ、と云って親の許さぬ事は出来ませんが、あなたそれ程まで思ってくださるならば、人は七転《ななころ》び八起《やお》きの譬《たとえ》で、運が向いて来て元の様《よう》になれんでも、切《せ》めて元の身代の半分にでも身上《しんしょう》が直ったらおいささん、お前と夫婦に成りましょう、私も女房を持たずに一生懸命に稼《かせ》ぎやすが、貴方《あなた》も亭主を持たずに待って居てください」
い「本当に嬉しゅうございます、私《わたくし》は一生奉公《いっしょうぼうこう》をしても時節を待ちますから、お身を大事に重二郎さん、あなた私を見捨てると聴きませんよ」
 と慄声《ふるえごえ》で申しましたが、嬉涙《うれしなみだ》に声|塞《ふさが》り後《あと》は物をも云われず、さめ/″\とし襦袢《じゅばん》の袖で涙を拭いて居ります。想えば思わるゝで、重二郎も心嬉しく、せわ/\しながら。
重「私《わし》はもう帰《けえ》りますが、今の事を楽《たのし》みに時節の来るまで稼《かせ》ぎやすよ」
い「御身代の直るように私も神信心《かみしんじん》をして居ります、どうぞお母様《っかさま》にお目にはかゝりませんが、お大事になさるように宜《よ》く仰《おっ》しゃってくださいまし」
重「此の包《つゝみ》は折角の思召《おぼしめし》でございますから貰って往《ゆ》きます」
 と云っている処へお兼が帰ってまいり、
兼「もう明けても宜《よろ》しゅうございますか、お早ければ最《も》う一遍往ってまいります」
 と云いながら隔《へだて》の襖《ふすま》を明け、
兼「なんだかお堅い事ねえ、本当に嬢様は泣虫《なきむし》ですよ、お気が小さくっていらっしゃいますから、あなた不憫《ふびん》と思って時々逢って上げて下さいまし、あの最《も》うお帰りです
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