、旦那から承わって居りましたが、ようこそお出《い》でゞ、此の後《ご》とも幾久しく宜《よろ》しゅう願います、えゝ当家も誠に奉公人も大勢居りましたが、女共を置きましたところが何かぴら/\なまめいてお客が入りにくいから、皆一同に暇《いとま》を出して、飯焚男《めしたきおとこ》も少々訳が有って暇《ひま》を出しまして、私《わたくし》一人《いちにん》に相成りました、どうかお荷物をお預けなすったら、何は久助《きゅうすけ》は何処《どこ》へ行ったな」
助「横浜でも買出しをして、それから東京でも買出しをして、遅くもどうかまア十一月中頃までに帰《けえ》ろうと、こう心得まして出ました」
丈「成程、それでは兎も角も三千円の金を確かに預かりましょう」
助「就《つ》きましては、誠に斯様《かよう》な事を申しては済みませんが、私《わし》の身に取っては三千円は実に大《たい》した金で、今は大《でか》い損をした暁《あかつき》のことで、此の三千円は命の綱で大事な金でがんすから、此方《こちら》にお預け申して、さア旦那様を疑ぐる訳じゃ有りませんが、どうか三千円確かに預かった、入用《にゅうよう》の時には渡すという預《あずか》り証文を一本御面倒でも戴きたいもので」
丈「成程これはお前の方で云わぬでも当然の事で、私の方で上げなければならん、只今書きましょう」
と筆を取って金《きん》三千円確かに預かり置く、要用《よう/\》の時は何時《なんどき》でも渡すという証文を書いて、有合《ありあわ》した判をぽかりっと捺《お》して、
丈「これで好《い》いかえ」
助「誠に恐入ります、これでもう大丈夫」
とこれを戴いて懐中物の中へ入れます。紙入《かみいれ》も二重になって居て大丈夫なことで、紙入も落さんようにして、
助「大宮から歩いて参りまして草臥《くたび》れましたから、どうかお湯を一杯戴きたいもので」
又「誠に済みませんが、※[#「※」は「「箍」で下「手へん」のかわりに「木へん」をあてる」、486−11]《たが》が反《は》ねましてお湯を立てられません、それに奉公人が居りませんから、つい立てません、相済みませんが、此の先《さ》きに温泉がありますから、どうかそれへお出《い》でなすって下さい」
助「温泉というと伊香保《いかほ》や何かの湯のような訳でがんすか」
又「なアに桂枝《けいし》や沃顛《よじいむ》という松本先生が発明のお薬が入って居りまして、これは繁昌《はんじょう》で、其の湯に入ると顔が玉のように見えると云うことでございます」
助「東京へは久しぶりで出てまいって、それに又様子が変りましたな、どうも橋が石で出来たり、瓦《かわら》で家《うち》が出来たり、方々《ほう/″\》が変って見違えるように成りました、その温泉は何処《どこ》らでがんすか」
又「此処《こゝ》をお出《い》でになりまして、向うの角《かど》にふらふ[#「ふらふ」に傍点]が立って居ります」
助「なんだ、ぶら/\私《わし》が歩くか」
又「なアに西洋床《せいようどこ》が有りまして、有平《あるへい》見た様《よう》な物が有ります、その角に旗が立って居りますから、彼処《あすこ》が宜しゅうございます」
助「私《わし》はこれ髻《まげ》がありますから、髪も結《ゆ》って来ましょうかねえ」
又「行って入らっしゃいまし、残らず置いて入らっしゃいまし」
丈「証書の入った紙入を持って行って、板の間に取られるといけないよ」
助「板の間に何が居りますか」
丈「なアに泥坊がいるから取られてはいけん」
助「これはまア私《わし》が命の綱の証文だから、これは肌身離されません」
主「それでも湯に入るのに手に持っては行《ゆ》けないだろう」
助「事に依《よ》ったら頭へ縛り付けて湯に入ります、行ってめえります、左様なら」
又「いって入《いら》っしゃいまし……とうとう出掛けたが、是は君、えゝどうも、富貴《ふうき》天に有りと云うが、不思議な訳で、君は以前お役柄《やくがら》で、元が元だから金を持って来ても是程に貧乏と知らんから、そこで三千円という大金を此の苦しい中へ持って来て、纒《まとま》った大金が入るというのは実に妙だ、それも未《まあ》だ君にお徳が有るのさ、直《す》ぐ其の内を百金御返金を願う」
丈「これさ、今持って来たばかりで酷《ひど》いじゃアないか」
又「此の内百金僕に返しても、此の金《かね》は一|時《じ》に持って往《ゆ》くのじゃない、追々《おい/\》安い物が有れば段々に持って往く金だから、其の中《うち》に君が才覚して償《つぐの》えば[#「償《つぐの》えば」は底本では「償《つくの》えば」]宜しい、僕には命代《いのちがわ》りの百円だ、返し給え」
丈「それじゃア此の内から返そう」
と百円|包《づゝみ》になって居るのを渡します。扨《さて》渡すと金が懐へ入りましたから、気が大きくなり
又「どうだい、番頭の仮色《こわいろ》を遣《つか》って金を預けさせるようにした手際《てぎわ》は」
まア愉快というので、お酒を喫《た》べて居りますとは清水助右衞門は少しも存じませんから、四角《よつかど》へまいりまして見ると、西洋床というのは玻璃張《がらすばり》の障子《しょうじ》が有って、前に有平《あるへい》のような棒が立って居りまして、前には知らない人がお宮と間違えてお賽銭《さいせん》を上げて拝みましたそうでございます。助右衞門は成程有平の看板がある、是だなと思い、
助「御免なさいまし、/\、/\、此処《こちら》が髪結床《かみゆいどこ》かね」
中床《なかどこ》さんが髭《ひげ》を抜いて居りましたが、
床「何《なん》ですえ、広小路《ひろこうじ》の方へ往《ゆ》くのなら右へお出《い》でなさい」
助「髪結床は此方《こちら》でがんすか」
床「両国の電信局かね」
助「こゝは、髪結う所か」
と云っても玻璃障子《がらすしょうじ》で聞えません。
床「何ですえ」
助「髪を結って貰いたえもんだ」
床「へいお入《はい》んなさい、表の障子を明けて」
助「はい御免、大《でけ》い鏡だなア、髪結うかねえ」
床「此方《こちら》は西洋床ですから旧弊頭《きゅうへいあたま》は遣《や》りません…おや、あなたは前橋の旦那ですねえ」
助「誰だ、何うして私《わし》を知っているだ」
床「私《わっし》やア廻りに歩いた文吉《ぶんきち》でございます」
助「おゝそうか、文吉か、見違《みちがえ》るように成った、もうどうも成らなかったが辛抱するか」
文「大辛抱《おおしんぼう》でございます旦那どうもねえ、前橋にいる時には道楽をして、若い衆の中へ入って悪いことをしたり何かして御苦労を掛けましたから、書ければ一寸《ちょっと》郵便の一本も出すんでげすが、何うも人を頼みに往《ゆ》くのもきまりが悪くて、存じながら御無沙汰をしました、宜《よ》く出てお出《い》でなすった、東京見物ですかえ」
助「なアに、当時は己《おれ》も損をして商売替《しょうべいげえ》をしべいと思って、唐物《とうぶつ》を買出しに来たゞが、馴染《なじみ》が少ないから横浜へ往って些《ちっ》とべい[#「些《ちっ》とべい」は底本では「些《ちっ》っとべい」]買出しをしべいと思って東京でも仕入れようと思って出て来た」
文「へい、商売替《しょうばいがい》ですか、洋物《ようぶつ》は宜《よ》うがすねえ、これから開《ひら》けるのだそうでげすなア、斬髪《ざんぱつ》になってしまえば、香水《こうずい》なども売れますぜ、お遣《や》りなさい結構でげすな、それに前橋へ県が引けると云うからそうなれば、福々《ふく/\》ですぜ、宿屋は何処《どこ》へお泊りです」
助「馬喰町《ばくろちょう》にも知った者は有るが、家《うち》を忘れたから、春見様が丁度|彼所《あすこ》に宿屋を出して居るから、今着いて荷を預けて湯に入《は》いりに来た」
文「何《な》んでげす、春見へ、彼処《あすこ》はいけません、いけませんよ」
助「いかねえって、どうしたんだ」
文「あれは大変ですぜ、身代限りになり懸って、裁判所沙汰が七八つとか有ると云って、奉公人にも何《なん》にも給金を遣《や》らないから、皆《みん》な出て行ってしまって、客の荷でも何でも預けると直《す》ぐに質に入れたり何《なに》かするから、泊人《とまりて》はございません、何か預けるといけませんよ」
助「それは魂消《たまげ》た、春見様は元御重役だぜ」
文「御重役でもなんでも、今はずう/″\しいのなんて、米屋でも薪屋《まきや》でも、魚屋でも何でも、物を持って往《ゆ》く気づかいありません」
助「そりゃア知んねえからなア」
文「何か預けた物がありますか」
助「有るって無《ね》えって、命と釣替《つりげえ》の」
と云いながら出に掛ったが、玻璃《がらす》でトーンと頭を打《ぶっ》つけて、慌《あわ》てるから表へ出られやしません。
文「玻璃戸が閉っていて外が見えても出られませんよ、怪我《けが》をするといけませんよ」
助「なに此の儘《まゝ》では居《い》られない」
と云うので取って返して来て、がらりと明けて中へ這入って。
助「御免なせえまし」
と土間から飛上って来て見ると、其処《そこ》らに誰も居りませんから、つか/\と奥へ往《ゆ》きますと、奥で二人で灯火《あかり》を点《つ》けて酒を飲んでいたが、此方《こちら》も驚いて。
丈「やアお帰りか」
助「先刻《さっき》お預け申しました三千円の金を、たった今|直《す》ぐにお返しを願います」
と云うから番頭驚いて。
又「あなたは髪も結わず、湯にもお入りなさらんで何うなさいました」
助「髪も湯も入りません、今横浜に安い物が有るから、今晩の中《うち》に往って居《お》らなければならんから、直ぐに行《ゆ》くから、どうか只今お預け申しました鞄《かばん》を証書とお引換《ひきかえ》にお渡しを願います」
と紙入から書付を出して春見の前へ突付けて。
助「どうか三千円お戻しを願います」
丈「それは宜《い》いが、まア慌てちゃいけん、横浜あたりへ往って、あの狡猾世界《こうかつせかい》でうか/\三千円の物を買えば屹度《きっと》損をするから、慌てずにそういう物があるか知らぬけれども、是から往って物を見て値を付けて、そこで其の内を五百円買うとか二百円買うとか仕なければ、固《もと》より慣れぬ商売の事だから、慌てちゃアいかん、何ういう訳だかまア緩《ゆっく》りと昔話も仕たいから、まア泊《とま》んなさい」
又「只今主人の申します通り、横浜は狡猾な人の多く居ります所だから、損をするのは極《きま》って居りますゆえ、三千円一度に持って往って損をするといけないから、まア/\今晩は緩《ゆる》りとお泊りなさいまし、して明日《みょうにち》十二時頃からお出《い》でなすって、品物を見定めて、金子も一時《いちじ》に渡さずに、徐々《そろ/\》持って往って、追々とお買出しをなすった方が宜しゅうございます」
助「それは御尤様《ごもっともさま》でございますが、親切な確かな人に聞いた事でございます、今夜の内に何うしても斯うしても横浜まで往《ゆ》かなければ成らぬ、売れてしまわぬ前に私《わし》が往《ゆ》けば安いというので、確かなものに聞きました、どうかお願いでございますからお返しなすって下せい、成程文吉の云った通り是だけの大《でか》い家《うち》に奉公人が一人も居ねいのは変だ」
丈「何を」
助「へい、なに三千円お返し下さい」
丈「返しても宜しいけれどもそんなに慌てゝ急がんでも宜《い》いじゃないか、先《まず》其の内千円も持って行ったら宜《よ》かろう」
助「へい急ぎます、金がなければならぬ訳でがんすから、何うかお渡し下さい」
と助右衞門は何うしても聞き入れません。こゝが妙なもので、三千円のうち、当人に内々《ない/\》で百円使い込んで居《い》るとこでございますから、春見のいう言葉が自然におど付きますから、此方《こちら》は猶更《なおさら》心配して、
助「さアどうかお返しなすって下せえ、今預ったべいの金だから返すことが出来ないことはあんめい」
丈「金は返すには極《きま》って居る事だから返すが、何ういう訳だか慌てゝ帰って来たが、お前が損をすると宜《よ》くないからそれを心配するのだ」
又
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