さま》にも何時《いつ》もお変りなく、一寸《ちょっと》伺いたく思いやすが、何分にも些《ち》と訳あって取紛《とりまぎ》れまして御無沙汰致しましたが、段々承れば宿屋店《やどやみせ》をお出しなすったそうで、世界も変れば変るもので、春見様が宿屋になって泊り客の草履《ぞうり》をお直しなさるような事になって、誠にお傷《いた》わしいことだ、それを思えば助右衞門などは何をしても好《い》い訳だと思って、忰《せがれ》や娘に意見を申して居ります、旦那様もお身形《みなり》が変りお見違《みち》げえ申す様《よう》になりました、誠にまアあんたもおふけなさいました」
丈「こう云う訳になって致方《いたしかた》がない、前橋の方も尋ねたいと思って居たが、何分貧乏暇なしで御無沙汰になった、よく来た、どうして出て来たのだ」
助「はい、私《わし》も人に損を掛けられて仕様がねい、何かすべいと思っていると、段々聞けば県庁が前橋へ引けるという評判だから、此所《こゝ》で取付《とりつ》かなければなんねいから、洋物屋《ようぶつや》をすれば、前には唐物屋《とうぶつや》と云ったが今では洋物屋と申しますそうでござりやすが、屹度《きっと》当るという人が有りますから、此処《こゝ》で一息《ひといき》吹返《ふきかえ》さなければなんねいと思って、田地《でんじ》からそれにまア御案内の古くはなったが、土蔵を抵当にしまして、漸々《よう/\》のことで利の食う金を借りて、三千円|資本《もとで》を持って出て参ったでがんすから、宿屋へ此の金を預けて仕入《しいれ》をするのだが、滅多に来《き》ねえから、馴染《なじみ》もねえ所へ預けるのも心配《しんぺえ》だから、身代の手堅い処がと、段々|考《かんげ》えたところが、春見様が宿屋店《やどやみせ》を出しておいでなさると云うから、買出《かいだ》しするにも安心と考《かんげ》えてまいりました、当分買出しに行《ゆ》きますまで、どうか御面倒でも三千円お預かり下さるように願います」
丈「成程左様か」
と話をしていると、井生森又作は如才《じょさい》ない狡猾《こうかつ》な男でございますから、是だけの宿屋に番頭も何もいないで、貧乏だと悟られて、三千円の金を持って帰られてはいけないと思って、横着者《おうちゃくもの》でございますから直《す》ぐに羽織を脱いでそれへ出てまいり。
又「お初にお目に懸りました、手前は当家の番頭又作と申すもので、旦那から承わって居りましたが、ようこそお出《い》でゞ、此の後《ご》とも幾久しく宜《よろ》しゅう願います、えゝ当家も誠に奉公人も大勢居りましたが、女共を置きましたところが何かぴら/\なまめいてお客が入りにくいから、皆一同に暇《いとま》を出して、飯焚男《めしたきおとこ》も少々訳が有って暇《ひま》を出しまして、私《わたくし》一人《いちにん》に相成りました、どうかお荷物をお預けなすったら、何は久助《きゅうすけ》は何処《どこ》へ行ったな」
助「横浜でも買出しをして、それから東京でも買出しをして、遅くもどうかまア十一月中頃までに帰《けえ》ろうと、こう心得まして出ました」
丈「成程、それでは兎も角も三千円の金を確かに預かりましょう」
助「就《つ》きましては、誠に斯様《かよう》な事を申しては済みませんが、私《わし》の身に取っては三千円は実に大《たい》した金で、今は大《でか》い損をした暁《あかつき》のことで、此の三千円は命の綱で大事な金でがんすから、此方《こちら》にお預け申して、さア旦那様を疑ぐる訳じゃ有りませんが、どうか三千円確かに預かった、入用《にゅうよう》の時には渡すという預《あずか》り証文を一本御面倒でも戴きたいもので」
丈「成程これはお前の方で云わぬでも当然の事で、私の方で上げなければならん、只今書きましょう」
と筆を取って金《きん》三千円確かに預かり置く、要用《よう/\》の時は何時《なんどき》でも渡すという証文を書いて、有合《ありあわ》した判をぽかりっと捺《お》して、
丈「これで好《い》いかえ」
助「誠に恐入ります、これでもう大丈夫」
とこれを戴いて懐中物の中へ入れます。紙入《かみいれ》も二重になって居て大丈夫なことで、紙入も落さんようにして、
助「大宮から歩いて参りまして草臥《くたび》れましたから、どうかお湯を一杯戴きたいもので」
又「誠に済みませんが、※[#「※」は「「箍」で下「手へん」のかわりに「木へん」をあてる」、486−11]《たが》が反《は》ねましてお湯を立てられません、それに奉公人が居りませんから、つい立てません、相済みませんが、此の先《さ》きに温泉がありますから、どうかそれへお出《い》でなすって下さい」
助「温泉というと伊香保《いかほ》や何かの湯のような訳でがんすか」
又「なアに桂枝《けいし》や沃顛《よじいむ》という松本先生が発明のお薬が入って居りま
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