シャツを着て居りますが、羽織も黒といえば体《てい》が好《い》いけれども、紋の所が黒くなって、黒い所は赤くなって居りますから、黒紋の赤羽織といういやな羽織をまして[#「まして」は「きまして」の誤記か]兵児帯《へこおび》は縮緬《ちりめん》かと思うと縮緬呉絽《ちりめんごろう》で、元は白かったが段々鼠色になったのをしめ着て、少し前歯の減った下駄に、おまけに前鼻緒《まえばなお》が緩《ゆる》んで居りますから、親指で蝮《まむし》を拵《こしら》えて穿《は》き土間から奥の方へ這入って来ました。
又「誠に暫《しばら》く」
丈「いや、これは珍らしい」
又「誠に存外の御無音《ごぶいん》」
丈「これはどうも」
又「一寸《ちょっと》伺《うかゞ》わなけりゃならんのだが、少し仔細《しさい》有って信州へ行って居りましたが、長野県では大《おお》きに何も彼《か》もぐれはまに相成って、致し方なく、東京までは帰って来たが、致方《いたしかた》がないから下谷金杉《したやかなすぎ》の島田久左衞門《しまだきゅうざえもん》という者の宅に居候《いそうろう》の身の上、尊君《そんくん》にお目に懸《かゝ》りたいと思って居て、今日《きょう》図《はか》らず尋ね当りましたが、どうも大《たい》した御身代で、お嬢様も御壮健でございますか」
丈「はい、丈夫でいるよ、貴公もよく来てくれたなア」
又「いやどうも、成程これだけの構えでは奉公人なども大勢置かんならんねえ」
丈「いや奉公人も大勢置いたが、宿屋もあわんから奉公人には暇《いとま》を出して、身上《しんしょう》を仕舞おうと思って居《い》るのさ」
又「はてね、どういう訳で」
丈「さア色々仔細有って、実に負債《ふさい》でな、どうも身代が追付《おっつ》かぬ、先《ま》ずどうあっても身代限《しんだいかぎり》をしなければならぬが、身代限をしても追付かぬことがある」
又「そりゃア困りましたな、就《つい》ちゃア僕がそれ君にお預け申した百金は即刻御返金を願いたい、直《すぐ》に返しておくんなさえ」
丈「百円今こゝには無い」
又「無いと云っては困ります、僕が君に欺《あざむ》かれた訳ではあるまいが、これをこうすればあゝなる、この機械を斯《こ》うすれば斯ういう銭儲《ぜにもう》けがあると、貴君《きくん》の仰《おっし》ゃり方が実《まこと》しやかで、誠に智慧《ちえ》のある方の云うことだから、間違いはなかろうと思って、懇意の所から色々才覚をして出した所が目的が外《はず》れてしまって仕方がないが、百円の処は、是だけは君がどうしても返して呉れなければ、僕の命の綱で、只今|斯《か》くの如き見る影もない食客《しょっかく》の身分だから、どうかお察し下さい」
丈「返して呉れと云っても仕方がないわ、それに此の節は勧解沙汰《かんかいざた》[#「勧解」に欄外校注:裁判官が説諭して示談にせしむること]が三件もあり、裁判所沙汰が二件もあるし、それに控訴もあるような始末だから、何と云っても仕方がない」
又「裁判沙汰が十《とお》有ろうが八つ有ろうが、僕の知ったことではない、相済まぬけれども是だけの構えを一寸《ちょっと》見ても大《たい》したものだ、それに外を廻って見ても、又座敷で一寸茶を入れるにも、それその銀瓶《ぎんびん》があって、其の他《ほか》、諸道具といい大した財産だ、あの百金は僕の命の綱、これがなければ何《ど》うにも斯《こ》うにも方《ほう》が付かぬ、君の都合は僕は知らないから、此の品を売却しても御返金を願う」
丈「この道具も皆抵当になっているから仕方がないわさ」
又「御返金がならなければ止《や》むを得んから、旧来御懇意の君でも勧解《かんかい》へ持出さなければならぬが、どうも君を被告にして僕が願立《ねがいた》てるというのは甚《はなは》だ旧友の誼《よし》みに悖《もと》るから、したくはないが、拠《よんどころ》ない訳だ」
丈「今と云っても仕方が無いと申すに」
又「はて、是非とも御返金を願う」
 と云って坐り込んで、又作も今|身代限《しんだいかぎ》りになる訳でいると云うから、身代限りにならぬうちに百円取ろうとする。春見は困り果てゝ居ります所へ入って来ましたのは、前橋竪町の御用達の清水助右衞門という豪家《ごうか》でございます。此の人も色々|遣《や》り損《そこ》なって損《そん》をいたして居りますが、漸々《よう/\》金策を致しまして三千円持って仕入れに参りまして、春見屋へ来まして。
助「はい、御免なさいまし、御免下さいまし」
丈「どなたか知らぬが、用があるならずっと此方《こっち》へ這入っておくんなさい」
助「御免を蒙《こうむ》ります、誠に御無沙汰しました、助右衞門でございます」
丈「おゝ/\、どうもこれはなつかしい、久々で逢った、まア/\此方《こっち》へ、いつも壮健で」
助「誠に存外御無沙汰致しましたが、貴方様《あなた
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