世の中に、腹の減るまでうか/\として居るとは愚を極《きわ》めた事じゃねえか、それに商業|繁多《はんた》でお前と長く話をしている事は出来ない、帰って下さい」
 と云い捨て、桑の煙草盆を持って立上り、隔《へだて》の襖《ふすま》を開けて素気《そっけ》なく出て往《ゆ》きます春見の姿を見送って、重二郎は思わず声を出して、ワッとばかりに泣き倒れまして、
重「はい、帰ります/\、貴方《あんた》も元は御重役様であった時分には、私《わし》が親父《おやじ》は度々《たび/\》お引立《ひきたて》になったから、貴方を私が家《うち》へ呼んで御馳走をしたり、立派な進物も遣《つか》った事がありますから、少しばかりの事を恵んでも、此の大《でけ》え身代《しんでい》に障《さわ》る事もありますまい、人の難儀を救わねえのが開化の習《なら》いでございますか、私は旧弊の田舎者で存じませぬ、もう再び此の家《うち》へはまいりません只今貴方の仰《おっ》しゃった事は、仮令《たとえ》死んでも忘れません、左様なら」
 と泣々《なく/\》ずっと起《た》って来ますと、先刻《せんこく》から此の様子を聞いていまして、気の毒になったか、娘のおいさ[#「おいさ」は底本では「おさい」と誤記]が紙へ三円包んで持ってまいり、
い「もし重二郎さん、お腹も立ちましょうが、お父《とっ》さんは彼《あ》の通りの強情者でございますから、どうかお腹をお立ちなさらないで下さいまし、これは私《わたくし》の心ばかりでございますが、お母《っか》さんに何か暖《あった》かい物でも買って上げて下さい」
重「いゝえ戴きません、人は恵む者がある内は、奮発の附かないものだと仰《おっ》しゃった事は死んでも忘れません」
い「あれさ、そんな事を云わないでこれは私《わたし》の心ばかりでございますから、どうかお取り下さい」
 と無理に手へ掴《つか》ませてくれても、重二郎は貰うまいと思ったが、これを貰わなければ明日《あした》からお母《ふくろ》に食べさせるのに困るから、泣々《なく/\》貰いまして、あゝ親父《おやじ》と違って、此の娘は慈悲のある者だと思って、おいさの顔を見ると、おいさも涙ぐんで重二郎を見る目に寄せる秋の波、春の色も面《おもて》に出《い》でゝ、真《しん》に優しい男振りだと思うも、末に結ばれる縁でございますか。
い「どうかお母《っか》さんに宜《よろ》しく、お身体をお大切になさいまし」
 と云って見送る。重二郎も振返り/\出て往《ゆ》きました。其の跡へ入って来たのは怪しい姿《なり》で、猫の腸《ひゃくひろ》のような三尺《さんじゃく》を締め、紋羽《もんぱ》の頭巾《ずきん》を被《かぶ》ったまゝ、
男「春見君は此方《こちら》かえ/\」
利「はい、何方《どなた》ですえ」
男「井生森又作という者、七《しち》ヶ年《ねん》前《ぜん》に他県へ参って身を隠して居たが、今度東京へ出て参ったから、春見君に御面会いたしたいと心得て参ったのだ、取次いでおくんなせえ」
利「生憎《あいにく》主人は留守でございますから、どうか明日《みょうにち》お出《い》でを願いとうございます」
又「いや貧乏暇なしで、明日《みょうにち》明後日《みょうごにち》という訳にはいかないから、お気の毒だがお留守なら御帰宅までお待ち申そう」
利「これは不都合な申分《もうしぶん》です、知らん方を家《うち》へ上げる訳にはゆきません、主人に聞かんうちは上げられません」
又「何《なん》だ僕を怪しいものと見て、主人に聞かんうちは上げられないと云うのか、これ僕が春見のところへまいって、一年や半年寝ていて食って居ても差支《さしつか》えない訳があるのだ、一体|手前《てめえ》妙な面《つら》だ、半間《はんま》な面だなア、面が半間だから云う事まで半間だア」
利「おや/\失敬な事を云うぜ」
又「さア手前《てめえ》じゃア分らねえ、直《す》ぐに主人に逢おう」
利「いけません、いけません」
又「いけんとは何《なん》だ、通さんと云えば踏毀《ふみこわ》しても通るぞ」
利「そんな事をすると巡査を呼んで来ますよ」
又「呼んで来い/\、主人に逢《あお》うと云うのだ、何を悪い事をした、手前《てめえ》の知った事じゃアねえ」
 と云いながら又作が無法に暴れながら、ずッと奥へ通りますと、八畳の座敷に座布団の上に坐り、白縮緬《しろちりめん》の襟巻《えりまき》をいたし、咬《くわ》え烟管《ぎせる》をして居ります春見丈助利秋の向《むこう》へ憶《おく》しもせずピッタリと坐り、
又「誠に暫《しばら》く、一別已来《いちべついらい》御壮健で大悦至極《たいえつしごく》」
丈「これさ誰《たれ》か取次をせんか、ずか/\と無闇に入って来て驚きましたわな」
又「なにさ、僕が斯様《かよう》な不体裁《ふていさい》な姿《なり》でまいったゆえ、君の所の雇人奴《やといにんめ》が大《おお
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