》をこぼして、
い「重さん、私《わたくし》は不意気《ぶいき》ものでございますから、貴方《あなた》に嫌われるのは当前《あたりまえ》でございますが、たとえ十年でも二十年でも亭主はもつまい、女房《にょうぼ》はもたないと云い交《かわ》せましたから、真実そうと思って楽《たのし》んで居りましたのに、貴方がそう仰《おっ》しゃれば私《わたくし》は死んでしまいますが、万一《ひょっと》許嫁《いゝなずけ》の内儀《おかみ》さんでも田舎から東京へ出て来てそれを女房になさるなら、それで宜《よろ》しゅうございますから、私は女房になれないまでも御飯炊《ごぜんたき》にでも遣《つか》ってあなたのお側にお置きなすって下さいまし」
重「勿体《もったい》ない、御飯炊《ごぜんたき》どころではないが云うに云われない訳があって、あんたを女房《にょうぼ》にする事は出来ません、私《わし》もお前さんのような実意《じつい》のあるものを女房にしたいと思って居りましたが、訳があってそう云うわけに出来ないから、どうか私が事は思い切り、良《い》い亭主を持って、死ぬのなんのと云うような心を出さないで下さい、お前さんが死ぬと云えば私も死なゝければならないから、どうか思い切って下さい」
い「お前さんの御迷惑になるような事なら思切《おもいき》りますけれど、お前さんの御迷惑にならないように死にさえすればようございましょう」
重「どうかそんな事を云わねえで死ぬのは事の分るまで待って下さい、後《あと》で成程と思う事がありますから、どうか二三日《にさんち》待って下さい、久しく居《い》るのも親の位牌《いはい》に済みませんから」
と云いながら起《た》とうとするを、
い「まア待って下さい」
と袖に縋《すが》るのを振切《ふりき》って往《ゆ》きますから、おいさは欄干《らんかん》に縋って重二郎を見送りしまゝ、ワッとばかりに泣き倒れました所へ、お兼が帰ってまいり、漸々《よう/\》労《いた》わり連立《つれだ》って家《うち》へ帰りました。すると丁度其の暮《くれ》の十四日の事で、春見は娘が病気で二三日《にさんち》食が少しもいかないから、種々《いろ/\》心配いたし、名人の西洋医、佐藤先生や橋本先生を頼んで見て貰っても何《なん》だかさっぱり病症が分らず、食が少しもいきませんから、流石《さすが》の悪者《わるもの》でも子を思う心は同じ事で、心配して居ります所へ。
男「えゝ新湊町の屋根屋の棟梁の清次さんという人が、あなたにお目にかゝりたいと申して参りました」
丈「なんだか知れないが病人があって取込《とりこ》んで居《い》るから、お目にかゝる訳にはいかないから、断れよ」
男「是非お目にかゝりたいと申して居ります」
丈「なんだかねえ、此間《こないだ》大工の棟梁にどうも今度の家根屋《やねや》はよくないと云ったから、大方それで来たのだろう、どんな装《なり》をして来たえ、半纒《はんてん》でも着て来たかえ」
男「なアに整然《ちゃん》とした装《なり》をして羽織を着てまいりました」
丈「それではまア此方《こっち》へ通せ」
と云うので下男が取次《とりつ》ぎますと、清次が重二郎を連れて這入《はい》って来ましたから、重二郎を見るとお兼が奥へ飛んで来まして。
兼「お嬢様、重さんが家根屋《やねや》さんを連れて来ましたよ、此間《こないだ》あなたに愛憎尽《あいそづか》しを云ったのを悪いと思って来たのでしょう」
い「そうかえ、そんなら早く奥の六畳へでもお通し申して逢わしておくれ」
兼「そんな事を仰《おっ》しゃってもいけません、私《わたくし》が今様子を聞いて来ますから」
と障子の外に立聞《たちぎ》きをします時、
丈「さア此方《こちら》へ/\」
清「へい新湊町九番地にいる家根屋の清次郎と申します者で、始めてお目に懸《かゝ》りました」
丈「はい始めて、私は春見丈助、少し家内に病人があって看病をしたので、疲れて居りますからこれ火を上げろ、お連《つれ》があるならお上げなさい」
清「えゝ少し旦那様に内々《ない/\》お目にかゝってお話がしとうございまして参りましたが、お家《うち》の方《かた》に知れちゃア宜《よろ》しくありませんから、どうか人の来《こ》ねえ所へお通しを願いたいもので」
丈「此間《こないだ》大工の棟梁が来て、家根《やね》の事をお話したから、其の事だろうと思っていましたが、何しろお話を聞きましょう、これ胴丸《どうまる》の火鉢を奥の六畳へ持って往《ゆ》け」
清「旦那、まアお先へ」
と先《さ》きへ立たせて跡から重二郎の尾《つ》いて来ることは春見は少しも知りません。
丈「これよ、茶と菓子を持って来いよ、かすてらがよいよ、これ/\、何か此の方《かた》が内々《ない/\》の用談があってお出《い》でになったのだから、皆《みん》な彼方《あちら》へ往《い》って、此方《こっち》へ来
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