ち》の娘に成って下さい、まア然んな不自由もさせないから、お前を貰って堅い養子を貰いたいが、私の子に成って何うか死水《しにみず》とって貰いたい、築地のお家主にも話を仕ようが、どうか得心して下さいな」
妻「私《わたくし》も然う思って居ますよ、ねえ姉さん此の儘にずるずるベッタリ家《うち》の娘に成ってお呉れなら養子をして安心を致しますから、何卒《どうぞ》然うして貰い度《と》うございます」
孫「まア女は女どしだからお前の処へ連れて行って緩《ゆっく》り話をしなさい」
妻「はい、さアお前|此方《こちら》へお出で」
と孫右衞門の妻が是から次の間へ連れて行って種々《いろ/\》娘に迫るから義理にも厭《い》やとは言われません。
筆「はい、いずれ考えまして御挨拶を申しましょう」
と云う内に参りましたのは築地の家主金兵衞で、
家「御免下さい」
奉公人「誰方《どなた》だえ」
家「築地小田原町の町役人山田金兵衞と申す者で」
奉「入《いら》っしゃいまし、此方《こちら》へお上《あが》りなすって何うか、旦那小田原町のお家主金兵衞|様《さん》が入っしゃいました」
孫「おゝ夫《それ》はまア、此方へどうか」
家「へい始めまして、えゝ家主山田金兵衞で至って不調法者で不思議な御縁でお目に掛ります、幾久しくお心安く願います」
孫「はい、始めまして米倉孫右衞門と申す疎忽者《そこつもの》でお心安う願います、これ布団を出しな、烟草盆にお茶を早く…さア何卒《どうか》此方へ/\」
金「もうお構い下さいますな、誠に此の度《たび》はどうも御親切に有難う存じます、私《わたくし》も心配致して居りましたが店子《たなこ》の者で親子二人暮して居りますが、其の娘が至って孝行者で寝る目も寝ないで孝行をして居るを気の毒に存じ他の店子と違って私も丹精を致して居りました処でまア詰らん事の災難で……全く其のお筆と云う者が桂庵の婆《ばゞア》の巾着を盗《と》った訳では有りません、実はその婆が妾奉公に世話をしてやると云ったのを、お筆の親が侍の事で物堅いから、怪《け》しからん不礼《ぶれい》な婆だと悪口《あっこう》を申して帰しましたのを遺恨に思って、企《たく》んでされたと云う事も直《すぐ》に分って、決して人様の物を取る様な娘ではないので誠にどうも飛んだ災難で、お筆は一途《いちず》に残念に思いました処から、駈出して入水致したを、お助け下さいました趣《おもむ》きで有難う存じます、それに亦《また》お宅の嬢様も御逝去《おなく》なりと承りましたが嘸《さぞ》御愁傷で、七日《なぬか》の朝築地の波除杭《なみよけぐい》の処へ土左衛門が揚ったと云うので、私《わたし》も思わずお筆の死骸と存じまして跣足《はだし》で箸と茶碗を持って駈出す様な事で、行って見ると小紋の紋附に紫繻子の帯を締めまして赤い切《きれ》を頭へ掛けて居りまして、お筆ではないかと存じましたが、それが此方のお嬢様の御死骸と只今承る様な事で」
孫「成程それは/\誠にどうも」
金「えゝ其のお筆が居りますなれば私《わたくし》が逢い度《た》いもので、是へ何卒《なにとぞ》お呼びなすって」
孫「誠に間が悪がって、貴方にお目には掛れないと云って居ります」
家「なに然《そ》んな事は有りません、これお筆さんや何《なん》でお前どうも困るじゃアないか」
孫「まア其様《そんな》に大きな声をなすっては却っていけません、これ婆ア此処《こゝ》へ連れてお出で/\」
妻「さア此処へお出で」
と孫右衞門の妻に連れられてお筆は面目なげに泣きながら出て参りまして、顔も上げ得ませんで泣伏して居ります。
家「お前まア、何《ど》ういう訳でそんな軽率《かるはずみ》な事をしたのだえ、無分別の事ではないかえ、私に言い悪《にく》ければ家内にでも云って呉れゝば此様《こん》な事にはならないものを、親父さんは一人の娘が入水を致したからは此の世に何一つ楽《たのし》みはないと置手紙をして世帯道具も其の儘置去りにして行方知れず、だが又帰る事もありましょうから親御の帰るまで私の家《うち》へお帰り、面目ない事は少しもありませんよ、何時迄も此方《こちら》にお世話になって居ては済まん事で、さア、私《わし》と一緒に帰んなさい」
筆「はい」
孫「あゝ申し、就きまして貴方に折入ってお願《ねがい》がございますが、此のお筆さんは今は親の無い身の上で何処《どこ》へ参ると云う見当《あて》もない事で、親御の御得心の無い者を私の娘に貰い度《た》いとも申されませんが、お前|様《さん》が御承知下されば何《ど》うも此の娘《こ》を私の娘《むすめ》にし度いと思いますが、是が深い縁があって助けたのだと家内も申して居りますので、私は他に子供がないから、何卒《どうか》此の娘《こ》を貰って養子を仕様と云う積りで、親の承知の無い者をお貰い申すと云う訳ではないが、貴方から下さる様に茲《こゝ》は貴方が親御に成って下されば宜《よ》いが、手前《てまい》此の娘子《むすめご》に決して不自由はさせません積りで、へい奉公人も大勢使って居りますが其の中に好《よ》い心掛の者がありますから是を養子に貰おうと存じて居りました処、一人の娘が彼《あ》アいう事に成りましたので此の娘《こ》を助けて連れて帰りましたが、僅《わずか》内に居ります間も誠に親切にして真《まこと》の親子の様にして呉れまして、何《なん》だか可愛《かわゆく》てなりませんで、是も何《なん》ぞの縁でございましょうから、どうか貴方が親御に成って此の娘を下さる様な訳には行《ゆ》きませんか」
家「成程至極|御尤《ごもっとも》の儀ではございますが、別段|私《わたくし》が其の親から頼みを受けたということもなし、世帯道具を残らず置いて娘の行方を尋ねに参った事で又帰る様な事に成りましょうから、何《ど》うも私《わたし》が得心の上で差上げる訳にも成りません、手前の方でも又少し夫《それ》はねえ、もしお筆さん、夫もあるものだから直《すぐ》に此方《こちら》の娘と云う訳にも行《ゆ》きますまいと存じます、是はどうも然《そ》う参りませんなア」
孫「左様ではござりましょうが、ねえお筆さん私が折入ってお願だがどうかね、是も何かの約束と思ってまア、私の娘に成って下さいなね、夫婦とも子のない身の上でどうか願いたいが、のう婆さん」
妻「どうかねえ貴方が御得心で親御の行方が分る迄も此方《こちら》へ居て貰うよう願い度《た》いものでね」
と夫婦が種々《いろ/\》に折入って頼みますが、金兵衞は其の実はお筆を連れて帰り、自分の甥の嫁に致したい心底ですから困りまして、
金「でもございましょうが何《なん》でございます、其の事に付いて種々訳のある事で、私も一通りならん心配を致しましたから一旦連れて帰って家内に面会させまして其の後《のち》の事に致しましょう」
孫「夫は至極御尤の事でございます、が何《ど》うかまア御無理だが是非願い度い、せめて親御のお帰り迄お預け置き下さい、此の子も御縁あって私の処へお出でに成ったのですから親父さんがお帰りになりましてから其の時お帰し申しても又御承知の上で此方《こちら》へ更《あらた》めて戴くと云う様な事に致し度いもので、どうかなア其処《そこ》は貴方が御承知を願い度いものでございます」
金「その一体其の何《どう》も私共が兎や角と云う訳ではないが、私の店子でございまして店子と申せば子も同様の者でございますから実は其の私の方で引取るのが当然の訳で清左衞門の文面の様子でも帰る様な事で見れば、又帰りました上で清左衞門へ話も致しますが今晩の処は連れて帰ります」
孫「さようでは有りましょうが兎も角親御のお帰りまで貴方御得心でお預け下さいます様に願い度いもので」
金「夫《それ》は何《ど》うもねえ、お筆さん其処《そこ》は当人の了簡も聞かなければなりませんが、私が兎や角拒む訳はないが、へえお筆さん、どうしたもので」
孫「もう夫は家内と確《しっ》かり相談して見ると親兄弟もない身の上だから然《そ》う云う事にして呉れゝば私も命を助けられた恩返しに孝行を致したいと此の娘《こ》も申します」
金「それは然うあるべき訳でございますけれども、私も随分お筆|様《さん》を丹精致した事は中/\貧苦のなに貧乏と申す訳ではありませんが、まア困って居る処を私が余程肩を入れて内職を教えたり種々《いろ/\》にして、まア斯《こ》う云う訳に成ったので、どうも私一人が得心する訳にも行《い》かんからお筆様、お前が是を確《しっか》りして此の挨拶をしてお呉れ、私の家内にも一旦相談して見なければならないがお前さんはまアどう云う心持だえ」
筆「誠にもう何《なん》とも申訳はございません、貴方のお家《うち》へも済みませんが、此方様《こなたさま》でも命をお助け下さったのみならず種々《しゅ/″\》御心配を掛け、殊には私と同じ様なお嬢|様《さん》も入水を成さって相果て、此方《こちら》の御両親のお心持をお察し申しますと誠にお気の毒様で、どうも是程に不束《ふつゝか》な私を、あゝ仰しゃって下さりますものを無にも致されませんから、それに大恩のあるお両人《ふたり》様でございますから親父の帰る迄|此方様《こちらさま》の御厄介に成って私も居ります積りでござりますから左様思召して下されまし、何《いず》れ其の中《うち》御家内様へお目に掛ってお詫を致しますから、どうか貴方から宜しゅう仰しゃって下さいまし」
と涙を拭きながら申しますから
金「どうも然《そ》う云う訳ですかなア、じゃア、まアお暇《いとま》致しましょう」
と金兵衞もお筆が申すので仕様がないから、ブツ/\云いながら立帰りました。是が縁で此のお筆が此の家《いえ》の娘になりましたが、誠に不幸の人で再び大難に遇《あ》う条《くだり》一寸《ちょっと》一息つきまして。
五[#「五」は底本では「四」と誤記]
えゝ、米倉屋孫右衞門の家では、二月の十日が娘の三十五日で谷中|静雲寺《せいうんじ》に於《おい》て、水死致した娘の事で有りますから、猶更|懇《ねんご》ろに法事供養を致しました。すると其の年の八月此の米倉屋孫右衞門の家内おゆうが四十七歳で死去《みまかり》ました、重ね/″\の不幸のみならず、娘の入水致した時などは、余程入費も費《ついや》しました事で、引続いて種々《いろ/\》の物入《ものいり》のございましたので、身代も余程衰えて来た処へ、其の年の十一月二十九日の日《ひ》に籾倉《もみぐら》の脇から出火で福井町から茅町《かやちょう》二丁目を焼き払った時に土蔵を落して丸焼に成り、米倉孫右衞門、神田三河町に立退きまして商売替を致し、米商売を始めました処、案外の損を致しました、然《しか》るに又宝暦の六年は御案内の年代記にも出て居りますが、江戸の大火で再び焼失致しましたから遂に身代限りを致し、何《ど》うも致方《いたしかた》がないから僅《わずか》の金を借りて京橋の鍛冶町《かじちょう》へ二間間口の家を借り、娘に小間物を商なわせ、小商《こあきない》を致して居ります中《うち》に、余り心配を致したのが原因《もと》に成って孫右衞門は病の床に就《つ》きました、娘のお筆は大切に看病を致して居りますが、誠に不幸な人でございまして、死ぬ処を助けられて宜《よ》い処へ行ったと思うと其の家が零落を致し養母には間も無く死別《しにわか》れ、親父は病気に成って其の看病を致しますが、一体孝心の娘でございますから、店で商いを致しながら父の看病を怠《おこたり》なく致しまする故か、孫右衞門の病気も怠った様でございますが、頓と身体が利きません、先ず中気の様に成りました、仕方がないから家主|藤兵衞《とうべえ》へ相談の上、店を仕舞って裏屋住いに成り、お筆が僅の内職を致しますが居立《いたち》の悪い親を介抱致しながらでございますから、内職を致す間《ま》も碌々ございません、親父が寝付いた間《ま》に内職を致すのだから何程の工銭《こうせん》も取れません、売り喰いに致して居りましたが、末には、何うも致方がない、読者《あなたがた》は御存じがありますまいが、貧乏人の身にある事で米薪が切れる、着物が
前へ
次へ
全14ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三遊亭 円朝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング