り、本郷町の桂庵《けいあん》のお虎と云うもので、
虎「ちょいと姉《ねえ》さん、待ってお呉れよ……おい姉さん」
筆「はい」
虎「お前ね、今|此処《こゝ》に居る人は一人か二人しか居ないよ、小紋の紋付に紫繻子の帯を締めて良《い》い処《とこ》のお嬢さんのふりをして、大胆な女じゃアないか人の金入《かねいれ》を取りやアがって、あの巾着にゃア金は沢山《たんと》入ってやアしないよ、三両一歩入ってるの、此方《こっち》へ返えせ、此の前《めえ》も此方ア銘仙の半纒が失《なくな》ってらア、疾《と》うから眼を注《つ》けて居たんだ、近所で毎度顔を見て知ってるぞ、左の袂《たもと》に入ってるから出しなよ、何《なん》だ利いた風な阿魔女《あまっちょ》だ」
と口穢《くちぎた》なく罵《のゝし》るのを此方《こちら》は何を云われても只おど/\して居ると、お虎婆アは無闇に来てお筆の袂から巾着を引出して、
虎「それ見やアがれ此の通りだ、此の阿魔女め」
と小桶を取って投《ほう》り付けると小鬢《こびん》に中《あた》って血が出る。娘だけに他《はた》が大騒ぎで、
番「外へ立っちゃアいけません、板の間稼ぎでも何でもない物の間違でげす」
と云って居る所へ、人を掻分けて近江屋金兵衞が参り、
金「何だ/\」
番「是は大屋さん入らっしゃいまし、相手は帰りましたが、本郷町の桂庵|婆《ばゞあ》のお虎てえいけない奴で」
金「何か取ったのか」
番「婆アが取ったんじゃア有りませんが、貴方の店子《たなこ》で、それ浪人で売卜《うらない》に出る人が有りましょう」
金「ア、ア」
番「あの綺麗な娘が有りますな」
金「ア、お筆さんと云うのだが、何《なん》だえ、何《ど》う云う間違いなんです」
番「婆アが云いますには嬢さんが巾着を取ったって、嬢|様《さん》が着物を着て了《しま》い、手拭を絞ってる所へ婆アが板の間から飛んで来て嬢さんの袂へ手を入れると、辷《すべ》り込んだのでゞも有りますか巾着が出ましたお嬢|様《さま》が他人《ひと》の物を取るようなお子様じゃア有りませんが」
金「なにー、篦棒めえ、貴様は何だ」
番「湯屋の番頭で」
金「何だって番をして居るのだよ」
番「番はして居ましたが、袂から巾着が出たので」
金「出たって他人《ひと》の物を取るようなお筆さんじゃアねえのに、そんな悪名《あくみょう》を付けられて堪《たま》るものか、己の店子に間違いが有っちゃア此の儘に捨置かれねえ、何処《どこ》までも詮議を為《し》なけりゃアならねえ、他《ほか》の事とは違う、婆アは何処に居る、姉さんは何処に居る」
番「お虎婆アは先刻《さっき》帰りましたが、何《なん》でも是は姉さんに恨《うらみ》が有って仕た事でしょう、姉さんは間が悪いとでも思ったか、裏口から駈け出した限《き》り行方が知れません」
金「夫《それ》は大変だ」
と汗をダク/\かいて宅《たく》へ帰って参り、
金「おい/\何故お前《めえ》お筆さんと一緒に湯に行《い》かねえんだ」
蓮「だって尾張町の夫婦が子供を連れて来て漸《ようや》く帰して仕舞うと又|彌兵衞《やへえ》さんが来たのだもの」
金「今本郷町の桂庵婆アがお筆さんに泥棒をしたって悪名《あくみょう》を附けやアがった」
蓮「お前さん黙って居たかえ」
金「己は跡から行ったのだから様子が分らねえ」
蓮「お前さん何《なん》の為に行ったんだねえ」
金「知らずに行ったのよ、板の間だと云う騒ぎなんだがお前さえ附いて行《ゆ》けば其んな事ア有りアしねえんだ」
蓮「私は宅《うち》の片付け物をして居らアねお前さんこそブラ/\遊んでばかり居る癖に」
金「遊んでやアしない、己が今湯屋の前を通り掛ると人が立って居るから、何うしたんだてえと、浪人者の姉さんがなコレ/\てえから慌てゝ帰《けえ》って来た…おゝ清左衞門さんか、此方《こっち》へお這入り、大変な事が出来た」
清「へえー何う云うお間違いで」
金「今家内に小言を云ってる処ですが、お筆さんと湯へ行《ゆ》く約束をしてお筆さんが誘って下さると、丁度客が来て居たもんですから、お筆さん一人で柳原町《やなぎはらまち》の湯へ行くと、本郷町の桂庵の婆ア、意地の悪そうな奴で妾の周旋《しゅうせん》をしたり何《なに》かしていけない奴です、其奴《そいつ》がお筆さんに己の巾着を取ったって、板の間から直《すぐ》に上《あが》って来てお筆さんの袂へ手を突ッ込んでお筆さんの袂から巾着を引出すと、僅かな金でも……腹ア立《たっ》ちゃアいけない、取ったと云うのではない、是には何か理由《いりわけ》の有る事だろうと思うが、今帰って、家内《これ》へ厳《やかま》しく小言を申して居る処で、お筆さんを奥へ連れてってなだめて居る内に、お筆さんが居なくなったのだが、桂庵婆アに突合《つきあわ》して掛合えば何うでもなるが、何ういう理由《わけ》だか薩張《さっぱり》理由が分らねえ、恨を受けるような事は有りゃアしませんか、姉さんは他人《ひと》に憎まれるような事は有るまいと思うが何か有りませんか」
清「何処《どこ》へ参りました」
金「何処へ行ったか分りません、世間へ対して面目なくお前さんに叱られると思って何処《どっ》かへ行ったのでしょう」
清「はい私《わたくし》は斯《か》く零落を致して裏家《うらや》住いはして居っても人様の物を一厘一毛でも掠《かす》めるような根性は有りません、殊《こと》に御当家様から多分に此の春は戴き物をして何一つ不足なく餅も搗《つ》き明日《あす》は七草粥でも祝おうと存じて居ましたに、人様の物を取りますなんて」
金「取ったか取らないか未だ分らない、なにお筆さんが人の物を取る訳はないが、お前さん何か本郷町の桂庵の婆アに恨を受けるような覚えは有りませんか」
清「桂庵の婆ア、あの何《なん》ですか、色の黒い肥満《ふとり》ました…」
金「左様」
清「あの豊胖《でっぷり》肥満ました、頭の禿《はげ》た」
金「左様」
清「うゝむ、あの婆ア」
金「ほら何か有るに違《ちげ》えねえんだ」
清「昨年の十月頃から再度参り、お前の処の娘を他《わき》で欲しがる番頭とか旦那とか有るから世話を致そうと申しますが、私《てまえ》取合いませんでした、すると昨年の暮廿九日に又|私《てまえ》方へ参りまして、三十金並べまして、お前さんはお堅いけれ共三十金は容易《たやす》い金じゃアない、殊に暮ゆえ百金にも向うじゃアないか、此の金《きん》を取ってお嬢さんを他家《わき》の妾にしなさればお前さんの為めになる、悪い事は勧めないと申しますから、私《わたくし》は立腹致して、不埓至極な婆《ばゞあ》だ、仮令《たとい》浪人しても武士だ、一人の娘を見苦しい目掛手掛に遣れるものか、何《なん》と心得て居る、そんな事を云わずにと申して又金を出しましたから、私《わたくし》は立腹の余り婆の胸倉を捕《と》って戸外《おもて》へ突出して、二度と再び参る事はならんと云って、唾《つばき》を横ッ面へ吐ッ掛けて遣《つか》わしました」
金「それだ、何しろ嬢さんの行《い》きそうな処は有りませんか」
清「左様、何処《どこ》と云って尋ねて参る処も有りませんが、小日向《こびなた》水道町に今井玄秀《いまいげんしゅう》と申す医者が有ります、其の娘と手習朋輩で前々《まえ/\》懇意に致した事が有りますが、手紙の贈答《やりとり》を致すと云う事を聴いて居ましたが夫《それ》へは多分参りますまいと思います」
金「だから何処か行きそうな処は有りませんか」
清「中番町《なかばんちょう》で外村金右衞門《とのむらきんえもん》と云う是はその直参《じきさん》と申しても小普請《こぶしん》で居ります、母方の縁類と云う訳でも何《なん》でも有りませんが極《ごく》別懇に致しまして、両度程連れて行《ゆ》きましたが夫へは多分参りますまい」
金「だから何処か行きそうな処は有りませんか」
清「谷中《やなか》日暮《ひぐらし》に瑞応山《ずいおうざん》南泉寺《なんせんじ》と云う寺が有ります、夫に宮内健次郎《みやのうちけんじろう》と云う者が居ますが、夫へは多分参りますまい」
金「行かない処ばかり云っては困る」
清左衞門は唯おど/\して何処を探そうと云う目途《めあて》もなく心配致して居ります。翌朝《よくちょう》に成って、
金「清左衞門さん私《わし》の家《うち》へお出《いで》なさい、一緒に七草粥を祝おうじゃアないか」
と云うので是から諸方へ手分けをして迷子を捜し大川筋を尋ねさせましたが知れません、今七草粥を祝おうと箸を取って、喰《たべ》に掛ると表をバラバラ人が通り、
○「何《ど》うした/\」
□「浪除杭《なみよけぐい》に打付《ぶっつ》かった溺死人《どざえもん》は娘の土左衛門で小紋の紋付を着て紫繻子の腹合せの帯を締めて居る、好《い》い女だが菰《こも》を船子《ふなこ》が掛けてやった」
△「行って見ろ/\」
金兵衞も清左衞門も之を聞くと等しく慌てゝ茶椀と箸を持《もっ》たなりで戸外《おもて》へ飛出したから見物人は驚きました。
○「何を丼鉢《どんぶりばち》を振廻すのだ」
清「そ其の土左衛門は何処に居ります」
金「旦那土左衛門は何処に居ります」
○「何を為《し》やアがるんだ、見ねえ、どうも気違《きちげ》えだ、人に飯を打掛《ぶっか》けて」
金「何《なん》と心得て居る、町役人《ちょうやくにん》だぞ、ど何処だ/\」
○「土左衛門へは船子が菰を掛けてやって、ブッカリ/\彼方《あっち》へ流れて行きました」
と云われて両人は気脱《きぬけ》のした様になり箸と茶椀を持ったなりで帰って来て、
清「はあー娘は面目ないので身を投げたか」
金「いや昨夜《ゆうべ》飛込んだものが然《そ》う急に浮く訳のものじゃアない、似た人は世間に幾らも有る、お筆さんはよもや死んなさりゃアしまい、心配なさんな」
清左衞門は実に呆然《ぼんやり》して、娘は盗賊《どろぼう》の汚名を受けこれを恥かしいと心得て入水《じゅすい》致した上は最早世に楽《たのし》みはないと遺書《かきおき》を認《したゝ》め、家主《いえぬし》へ重ね/″\の礼状でございます、其の儘浪宅をさまよい出《い》で諸方を探したが知れん。不図《ふと》気附いたは高奈部《たかなべ》の家の姪《めい》は放蕩無頼の女で、十六位から浮気心が有って、只今は女郎に成って居ると云う事だが、折々先方から手紙が来て、私《わし》に知らさんように手紙の贈答《やりとり》をして居ったが、万一《ひょっと》したら行《い》き宜《い》いから左様な処へでも行きはしまいかと、是から吉原へ這入って彼処此処《あちこち》を探して歩行《ある》いたが分りません。店先を覗《のぞ》きながら段々来て、江戸町一丁目の辨天屋の前まで来ました。
娼「ちょいと喜助《きすけ》どん、あの格子先に立って居るお客さんに会いたいから、そら覗いて居る人だよ」
喜「えへゝ旦那/\」
清「はい」
喜「華魁《おいらん》が貴方にお目に掛りたいと仰しゃいますんで」
清「左様でございますか、何処《どれ》へ出ます」
喜「何うか籬《まがき》の方へお出《いで》を願います」
其の内華魁が上草履《うわぞうり》を穿《は》いて跡尻《あとじり》から廻って参りますのを見て。
清「お前さんかえ、すっかり忘れてしまった、極《ごく》年の行かん時分に会ったのだから」
娼妓はいきなり清左衞門の胸倉を固く捕《と》り、声を振立て、
娼「此の武家《さむらい》だよ、私の亭主に毒を飲まして殺した奴は」
清「何をする………」
其の中《うち》に若者《わかいもの》が多勢《おおぜい》にて清左衞門を取押えて大門《おおもん》の番所へ引く事に成りました。是れから直《すぐ》に町奉行所へ出て、依田豊前守のお調べに成りましたが、此の下河原《しもがわら》清左衞門は人違いか、全く彼《か》の毒を盛った武家《さむらい》か、是れは後篇に申し上げることにいたします。
三
えゝ引続きの依田政談で依田豊前守御勤役中には少しお六《むず》ケしい事があると吟味与力に任して置かず直々《じき/\》の御
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