で其の日に追われ、僅《わずか》な物も売尽して仕方がなく明日《あした》米を買って与える事が出来ませんと、真に袖を絞って泣いての頼み、真実|面《おもて》に顕《あら》われましたから、あゝ感心な事じゃと存じまして、遂《つい》刻印金とは存じて居ながら、是なる娘に恵み与えました金子が却《かえ》って娘の害と成りまして、長らく病んで居ります処の親を一人残して入牢|仰付《おおせつ》けられたは如何にも筆へ対して手前気の毒な思いを致しました、筆には決して科《とが》のない事でございますから何《ど》うか町役人共へお引渡しに相成りますれば有難い事に存じます」
甲「うむ、是れなる筆に何両の金子を遣わした」
幸「えゝ其の勘定は確《しか》と心得ませんが五十金足らずかと心得ます、唯小菊の上へ掴み出して与えました事ゆえ勘定は確とは心得ませんが、残余《あと》の使い高に依って考えますと五十金足らずかと心得ます」
甲「うむ、此の者に貰ったに相違ないか、面体《めんてい》を覚えて居るか」
筆「其の夜《よ》は頭巾を被って在《いら》っしゃいましたからお顔は覚えませんがお声で存じて居ります、頂いたに相違ございません」
甲「うむ、町役人」
藤「へえ」
甲「此の筆なるものゝ父は長らく病中|夜分《よる》もおち/\眠りもせずに看病を致して、何も角《か》も売尽し、其の日に迫って袖乞に迄出る事を支配をも致しながら知らん事は有るまい、全く存ぜずに居ったか」
藤「遂《つい》心附かずに…」
甲「呆《たわけ》、其の方支配を致す身の上で有りながら、其の店子《たなこ》と云えば子も同様と下世話で申すではないか、其の子たる者の斯《かゝ》る難儀をも知らんで居《お》るという事は無い、殊には近辺の評も孝心な者で有ると皆々が申す程の孝心の娘なれば、其の方心に掛けて筆を助けて遣らんければならぬ、夫《それ》が手前の役じゃ、貧に迫って難渋なれば難渋の由を上へ訴えてお救《すくい》を乞うとか何とか訴出れば上に於て御褒美も下《くだ》し置かれる、然《しか》るを打捨て置いて袖乞に出る迄の難渋をかけると云うは、其の方|不取締《ふとりしまり》で有るぞ」
藤「お……恐れ入りました」
甲「筆其の方は見ず知らずの者より大金を貰い受け、紙を披《ひら》いて見たら多分の金子が有ったなら、早々町役人同道にて上へ訴え出なければならん処を、隠し置いて其の金を使いしは不届至極で有る、けれども其の日/\に差迫って、明日《みょうにち》は父に米を買って与える事も出来ぬ処から、其の金子を以て米薪に代えて父を救った其の孝心に依《よっ》て父を思う処から、悪い事とも心附かず迂濶《うっか》り其の金を使い是から家主と相談の上で訴え出ようと云う心得で有ったが、其の中《うち》に勘次郎という者が其の方の手許に金子の有る事を知って盗み取ったが、全く訴え出ようと心得て居《お》る内に其の金を取られたので有ろうな」
とお慈悲な事でございます。
十[#「十」は底本では「九」と誤記]
お筆は漸々《よう/\》顔を上げまして、
筆「はい左様で」
甲「何《ど》うじゃ町役人《まちやくにん》」
藤「全くは是から訴えようと内々《ない/\》下話《したばなし》もございましたので、処を盗み取られましたんで」
甲「これ下話が有ったら何故《なぜ》訴えぬ」
藤「いえ是から下話を致そうかと考えて居りましたんで」
甲「なんだ、筆なる者は罪もなく殊に孝心な者故助け度《た》いとて訴え出でたる幸十郎は最《い》と神妙の至りで有る、筆|儀《ぎ》は咎《とがめ》も申し付けべき処なれども、其の親孝心に愛《め》でゝ上に於ても格別の思召《おぼしめし》を以て此のまゝ免し遣わす、立ちませえ」
筆「はい」
と立とうとする途端にびいんという仮牢の錠の開く音が頭上に響いて、恟《びっく》りする中《うち》に大戸をガラ/\と開けて仮牢から引出《ひきいだ》されましたは、禿げた頭の月代《さかやき》は斑白《まだら》になりまして胡麻塩交りの髭が蓬々《ぼう/\》生え頬骨が高く尖り小鼻は落ちて目も落凹《おちくぼ》み下を向いて心の中《うち》に或遭王難苦《わくそうおうなんく》、臨刑慾寿終《りんけいよくじゅしゅう》、念彼観音力《ねんぴかんのんりき》、刀尋段々壊《とうじんだん/\え》、或囚禁枷鎖《わくしゅうきんかさ》、手足被※[#「※」は「きへん+丑」、570−6]械《しゅそくぴちゅうかい》、念彼観音力《ねんぴかんのんりき》、釈然得解脱《しゃくねんとくげだつ》、と牢の中《なか》でも観音経《かんのんぎょう》を誦《よ》んで居たが今ヒョロ/\と縄に掛って仮牢から引出《ひきだ》されるを見ますると、三年以前に別れた実父の下河原清左衞門でございますから何う云う訳で此の有様はと、はッと思いまして、
筆「お父《とっ》さん」
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