で喧嘩が始まり、一層にごった返して、子供や老人《としより》は踏《ふみ》つぶされるやら、突飛《つきとば》さるゝやら、イヤもう大変の騒動でございます。その中でお若さんは彼方《あちら》へもまれ此方《こちら》へ押されいたしまして、
 若「伊之さんや、伊之助さんや」
 と声を嗄《から》して見得も外聞もかまわず呼んでおりますが些《ちっ》とも知れない。此の大騒ぎのうちに横浜ゆきの汽車は通りすぎ、火事も幸いにボヤで済みましたから、四辺《あたり》も鎮まってまいり、漸《ようよ》う停車場内も静《しずか》になりましたけれども、伊之助は何うしましたか姿が見えません。お若さんは、停車場の外へ出たり内へ這入ったりして頻《しき》りと探していなさるが何うしても居ないので、進退きわまりましたね。今さら帰るには帰られもしないし、また神奈川在とのみにて行先《ゆきさ》きも判然ときいて置かなかったし、何うして好《いゝ》かとうろ/\して居りますと、新橋発十時の汽車はまた汽笛をならして通り越して仕舞う。余り停車場内をうろつくので駅夫等は訝《おか》しくおもって注意する様子は見える。若《も》し巡査にでもこの素振を認められ尋ねられた時には何《なん》と答えたら宜《よ》かろうか知らん、それに最《も》う一度あとに発車があるばかりで、あゝ何うしようか、伊之助さんは何処《どこ》へ往《ゆ》きなすったのか知らん、中途で厭《いや》になり先刻《さっき》の騒ぎを幸いに捨られたのじゃアあるまいか、イヤ/\あの人はそんな薄情な気はない、矢ッ張り騒ぎに紛れて私を見失い、今でも屹度《きっと》さがしていなさるだろう、それにしては此処《こゝ》らにいなさらねばならぬ筈だに……こりゃ神奈川まで行って待っていなさるんだろうか、私が行先《ゆくさき》も知らないことは能く呑込んでいるんだから、まさか自分ばかり先《さ》きへ行《ゆ》くことはあるまい、と心配しぬいておりまするが、時計はさっさと廻って最《も》う十一時に近くなる。今十五分すれば新橋から発車するのだが、この汽車が最終のもので、これに乗らねば翌朝《よくあさ》まで待たなくッてはならぬ、それも伊之助と一緒に乗後《のりおく》れるのなら、別段心配する事もございません、品川には宿屋もございますことでげすから、泊る分のことゝ安心がしていられるが、何を云うにもお若さん一人でげすし、それに世間なれている蓮ッ葉ものと違って、なか/\宿屋なんかへ泊ることは出来ませんでげすから、その心配というものは一通りじゃアないので、何うして宜いか最《も》ううろつく勇気もございませんで、腰掛の隅にジッとして溜息をつきまして、あゝ斯ういう苦労をするも伯父さんの眼を掠《かす》め、道ならぬ道に踏み迷って我儘をした罰《ばち》かも知れない、といよ/\心細くなりますと、我知らず悲しくなって参り、涙がはら/\とこぼれて来ます。そうこう致すうちに切符を売出すので、お若さんは最うぐず/\して居られません、寧《いっ》そ神奈川とやらまで行って、何うしてなりと宿屋へ泊ろうと決心されましたは、実に大奮発なんで、世間知らずのお娘子でこの決心をするというは怖しいものでげす、誰が申し始めましたか存じませぬが曲者とは能く名付けました。怖しいは恋で、世の中に何が怖しいッてこれほど怖《おっか》ないものはございません。神奈川まで参って伊之助を待とうと決心を致されましたお若さんは、切符売場へ参り神奈川一枚と買っておりますと、悄々《しお/\》として遣って参った男がある、目早くも認めましたから、身を交《かわ》そうと致しましたが其の間《ま》がございませんで、
 男「オヤお嬢さんじゃげえせんかえ、まア今時分、何処《どこ》へ行らしったんでげすえ」
 若「なにね一寸《ちょいと》そこまで」
 と然《さ》り気《げ》なく答えはいたしまするものゝ、その慌てゝ居ります様子は直ぐ知れます、そわ/\と致して些《ちっ》とも落著《おちつ》いては居ません。
 男「えお嬢さん、お見かけ申せば何うも尋常《なみ》ならぬ御様子でげすが、何処へいらしッたのでげす、今お帰《けえ》りになるんでげすかえ」
 若「あゝ今|帰《かえ》るんですよ」
 と申しますが神奈川行きの切符を買いましたから、件《くだん》の男はます/\不審になりますものですから、
 男「お嬢さん只《たった》お一人で神奈川へ行《いら》っしゃるんでげすね、何うも変で、お嬢さん悪いことは申しません、私《わっし》と一緒にお帰《けえ》りなせえまし、お供いたします、何《ど》んなお急ぎの御用か知れませんが、今から彼方《あっち》へお出でになりますと十二時過でげすよ、そんな夜更に若い貴嬢《あなた》さまお一人で、え、お嬢さん、決して悪いことは申しません、仮令《たとえ》改めてお出懸なさるまでもねえ、一旦はお帰りなせえ、翌朝《あす》になりゃア行らッしゃる先方《さき》まで屹度《きっと》私がお供いたしますから」
 若「あゝうるさいねえ、急用があって行《ゆ》くんだから、うっちゃッといておくれよ」
 男「ヘヽヽヽ急御用てえのは、大方、ねえ、お嬢さん、神奈川あたりに待ってるものがあるんでしょう、ヘヽヽヽヽ何サうるさがられたッて、フヽヽヽム私《わっし》がお出先きまでお供しましょうよ、根岸の伯父御に頼まれて来たんだから、見届けなきゃア役目がすまねえのさ」
 とぐるりと変る調子にお若さんは恟《びっく》りいたし、何うか混雑に紛れてその男をまこうと苦しみますが、生憎《あいにく》夜は更けて居ます事で、待合室にもちらりほらりの人でげす。汽車へ乗込むところにも七八人のものしかいない。お若が如何に逃げてまわりましても、怪しい男は始終影身にそって附いております。先方《さき》へ行《ゆ》き着いてからの心配よりは、只今では此の男をまくことに気を揉んでもなか/\思うように参らない。
 品川の停車場《ステーション》でお若が怪しい様子に付けこんで目を放さない気味のわるい男は、下谷坂本あたりを彷徨《うろつ》いております勘太《かんた》という奴。元は大工でげしたが身持が悪いので、親方にもはなれ、仕事をさせてくれるものもない、そうなって参ると猶更に怠《なまけ》るようになって世の中の稼いで暮すと申す活業《なりわい》に逆らってゆくもので、到頭|破落戸《ごろつき》仲間へおち、良くない悪法ばかりやっております。根が胆《きも》ッ玉の太《ふて》え奴でげすから、追々その道の水に染まるにつれまして度胸がすわり、仲間うちでは相応に顔が売れてまいる、坂本の勘太てえば、あの墨染《すみぞめ》勘太かと申すぐらいで。この野郎が墨染という抹香《まっこう》くさい異名《いみょう》をとった訳を申し上げないとお分りになりますまいが、何も深い理窟のあるんではございません、異名だの綽名《あだな》だのと申すものは御存じの通り、その者の身体のうちか、あるいはまた言行のうちに一ヶ所の目安になるものがあって呼ばれるんでげす。勘太ッてえ奴も矢張《やっぱ》りそうなんで、脊中に墨染の文身《ほりもの》をしているからでございます。申すまでもないことでげすが墨染とはお芝居なんぞの中幕によく演《や》るあの関《せき》の扉《と》でげすな、大伴《おおとも》の黒主《くろぬし》が小町桜の精に苦しめらるゝ花やかな幕で、お芝居には至極結構なもので、何時《いつ》みても見飽のしないもの。此奴《こやつ》が何うしてお若さんを知っておりますかと申しますと、元大工でげすから晋齋のとこへ度々《たび/\》親方と共に仕事にまいり、お若さんが居なされたを垣間見《かきまみ》たんで、その嬋娟《あでやか》な姿に見とれ茫然《ぼんやり》いたして親方に小言をいわれていた。お顔を拝みまするたんびにぶるッぶるッと身ぶるいをして魂を失って仕舞いました。元より惚れぬいてはいるが、流石《さすが》親方のお出入先ではあるし、自分がたゝき大工であるから、とても遂げらるゝ恋でないと諦めても煩悩《ぼんのう》はます/\乱れてまいり、えゝという自暴《やけ》のやん八と二人づれで、吉原へ繰込みましては川岸《かし》遊びにヤッと熱を冷《さま》しておりました。そのうち親方もしくじり、破落戸《ごろつき》となったから、根岸の寮へ参るどころか足ぶみもならない。もう斯うなっては手蔓《てづる》が切れて顔を拝むことも出来ませんので、拠《よんどこ》ろなく諦めて仕舞いました。でげすが何うも未練は残っている。時ともすると根岸のお嬢さんのことを思い出し、歯軋《はぎし》りいたして悔《くや》んでおりました。今夜も懶《なま》けものの癖として品川へ素見《ひやかし》にまいり、元より恵比寿講をいたす気で某《ある》楼《うち》へ登《あが》りましたは宵の口、散々《さんざ》ッ腹《ぱら》遊んでグッスリ遣るとあの火事騒ぎ、宿中《しゅくじゅう》は鼎《かなえ》の沸《わ》くような塩梅しき、なか/\お客様に構っていられない。上を下へと非常に混雑いたしますから、勘太はこれ幸いと戸外《おもて》へ飛びだし、毎晩女郎屋近所に火事があればいゝ、無銭《たゞ》遊びが出来るなんかと途方もない事を申します。そう火事が矢鱈《やたら》無性《むしょう》にあって堪るもんでございますか。さて品川|停車場《ステーション》より新橋へ帰るつもりで参って見ると、パッタリ逢ったはお若さんでげす。最初は只《た》だよく面影《おもざし》の似た女としげ/\見惚《みと》れ、段々と傍へ寄って参って見れば姿こそ変っておりますが、身顫《みぶる》いの出るほどに惚れた根岸のお嬢さんでげすから、勘太も驚きましたね、マサカ斯様《こんな》ところで出会うとは夢にも思わないから、只一人ではあるまい、誰か同伴《つれ》があろうと注意をしても同伴はない、ハテ変なこともあるわ、お嬢さんが一人で此の辺《あたり》にいなさるは読めねえ訳と、ジッと目を止めて視《み》れば其の様子のおかしいので、悪党だけに早くも駈落と覚《さと》りましたから、しめた/\、うまく欺《だま》しこんで連れこみせえすりゃア、否応《いやおう》いわさず靡《なび》かせる工夫はあるぞ、今夜は弁天様から女福《にょふく》を授けられているそうだ、今の騒ぎで無銭《たゞ》遊びをした上、茫然《ぼんやり》帰《けえ》ろうとすると此様《こんな》上首尾、と喜びまして種々《いろ/\》お若さんに取入ろうとするが受付けません。この上は脅して連れて行《ゆ》くに如《し》かずと頷《うなず》き、伯父さんの晋齋を笠に着て引立てようとはいたすものゝ、何《なん》ぼ悪者でも己《おのれ》の惚れている婦人を手荒く扱いかねますので、流石《さすが》に手を取って引張ることもしない、顔は知っているが名も知らない気味の悪い男が附纒《つきまつわ》りますので、お若さんは心配でならない。何うにかして巻いて仕舞おうといろ/\に遣って見まするが、何うも自由《まゝ》にならぬうちに、新橋発の汽車は品川へ着き、ぞろ/\と下車するもの乗車するものでごた/\している。こんなときに撒《ま》かないととても紛れることは出来ぬと、態《わざ》とごた/\致す人中を選《よ》って漸《ようよ》う汽車に乗りこみます。やがてピーと響く汽笛が深夜でげすから物凄いように鳴渡り、ゴット/\という音が仕出して動き出しましたから、まア宜かった、まさか神奈川まで尾《つ》いては来《こ》まいと、胸なでおろしますものゝ、若《も》しやと思って室内を伺います。気味の悪い男の影は見えないから、此処《こゝ》に一安心《ひとあんしん》は致しましたが、そうなると直ぐ心配になって参るは神奈川へ着いてから何うしたら宜かろうか、好《いゝ》塩梅に伊之さんが待ってゝくれゝば可《よ》いが、若しも居なかったら何うしよう、宿屋へ泊るにしても一人、それに女らしく髪でも結っていることか、手拭をとったらいが栗坊主、さぞ訝《おか》しく思うだろう、こんなことゝ知ったら鬘《かづら》でも買ってかぶったものを、まアこれでは仕様がない。と流石《さすが》に一人歩きしたことのないお若が思いに沈んで心細く、ほろり/\と遣って居りましたが、汽車は間もなく神奈川へ着きましたので、恟《びっく》りして下車いたしたが、心当にして来た伊之助の姿は認めることが出来ません。停車
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