ってたはとんだ油断だッた。まだ何事を言われるか知れもしないうちから、お若さんは勘ぐって、モジ/\していなされたが、伯父の晋齋が此処へ来いというのでげすから、出ずには居《い》られませんので、おず/\晋齋の前へ手をつき、
 若「伯父さん改まって何《なん》の御用でござりますか」
 晋「別に改まって申すほどの事でないが、今日|私《わし》のうちに高徳な坊さんがお出でなさるから、お前にもお目にかゝらせようと思って迎いに来たんだ」
 と云われてお若は当惑いたしました。今夜は駈落をする筈で伊之助と手筈がきめてあるんですもの、何うかして断りたいといろ/\に考えましたが、即座によい智慧は出ませんから、ます/\困って何《なん》とも返答をいたすことが出来ない。そうすると晋齋はじろりとお若の様子を見て吸《すい》かけた煙草もすいません。お若だってそう何時《いつ》までも黙っては居られないから、
 若「折角でございますが、今日は御免を蒙りとうございます、初めてお目に懸るお方に頭のこんなに生えたなりでは失礼で」
 晋「イヤそれなら少しも苦しゅうない、そんな心配をするには及ばない、先方《さき》が俗人かなにかではなし、病中だとお断り申せば仔細はないよ、ナニ私《わし》から能くお詫をしてやるから、あゝいうお方のお談《はなし》をきいておくはお前の為だ、世捨人になっていながら恥かしいなんかてえ事があるものか、私が連れて行《ゆ》かねば到底《とて》も来そうもない、さア一緒に来なさい」
 と無理やりにお若は伯父の家《うち》へ連れて行《ゆ》かれましたから、さア心配で/\堪らないは今夜の約束でげす。早く坊さんが来て帰ってくれないと伊之さんに済まないとそればかりに気を取られ、始めの中《うち》は家の様子に気もつきませんでしたが、気を落著《おちつ》けて考えて見ますれば不審でげす。それほどの珍客があると云うに平常《いつも》の如く書生ばかりで手伝の人も来ていず、座敷も取散《とりちら》した儘で掃除する様子もありません。お若はだん/\訝《おか》しくなりますので、始めて伯父の計略にかゝって、引き寄せられたことを覚《さと》りました。さア大変、これでは折角伊之さんに約束したことも反故《ほご》になり、さぞ恨まれるであろう、何《なん》だか口振りが変だとは思っていたが、伯父さんも余《あんま》りのなされかた、欺《だま》して私を引きよせるとはそでない成されよう、あゝ仕方がない、斯《こ》うなりゃア隙を見て逃げ出すまでだが、何うか伊之さんに約束した刻限まで、あゝ何うしたら逃げ出されるか知らん、うっかりした事して押えられては仕様がない、何うか甘《うま》く脱《ぬ》け出したいものだ、と頻《しき》りに考えこんでおります。伯父の晋齋も別段小言は申しませんで、只《た》だ監督して目を離さない。これにはお若さんもほと/\困りましたが、坊さんの事などは聞きもしませんし言いもしませんで、茫然《ぼんやり》欝《ふさ》いでおりますと、書生は今までお若のいた庵室を片付け、荷物を晋齋のとこへ運んでまいりましたので、
 若「伯父さん私の荷物を此方《こちら》へ持ってお出でなすって何うなさるの」
 晋「ハヽヽヽヽ恟《びっく》りしたか、都合があってお前は当分|私《わし》の家《うち》におくのだよ」
 若「はい」
 と言ったきり何《なん》にも言わず、頭痛がするといって顔をしかめます。晋齋も心中《しんちゅう》を察していると見え、心持がわるくば寝るがいゝと許しますので、お若は褥《とこ》をとって夜着《よぎ》引っ被りましたが、何うして眠られましょう、何うぞして脱出《ぬけだ》したいと只一心に伯父の隙をねらって居りますが注意に怠りはございません。さて伊之助でございますが、根岸を立出《たちい》でましてから我が宿といたして居《お》る、下谷《したや》山伏町《やまぶしちょう》の木賃宿|上州屋《じょうしゅうや》にかえっても、雨降でげすから稼業にも出られず、僅かばかりの荷物など始末いたし、お若と駈落をする支度をいたして居りまする。元より所持品がたんとあるでなし、柳行李|一個《ひとつ》が身上でげすが、木賃宿などへ手荷物でも持って参るは上々のお客様で、上州屋でも伊之助を大事にして居りましたが、日の暮たばかりの七時ごろ上州屋の表へ一輌の人力車がつきますと、手拭を姉様《あねさん》かぶりにした美婦人が車を飛び下り、あわてゝ上州屋へはいり、
 女「あの此方《こちら》に伊之助さんと仰しゃる方は在《いら》っしゃいましょうね、今もおいでになりますか」
 宿「ハイ、お在になります」
 女「あの根岸から尋ねて参ったと、左様《そう》お願い申します」
 と云うも精一杯で真赤《まっか》になる初心《うぶ》な様子を見て、上州屋の帳場ではじろ/\とながめ、急に呼んではくれません。

        五

 一寸《ちょい》と往来でゞもそうでございます、若い綺麗な婦人に行会《ゆきあ》いますと振返りたくなるが殿方の癖で、殊に麝香《じゃこう》の匂いがプーンと致しては我慢が出来にくいものだそうで、ナニ己は婦人などに眼はくれぬ、渠《かれ》は魔である化物であるなんかと力んでいらッしゃる方もありますが、その遊ばすことを窃《そっ》と伺って見ますると矢ッ張り人情と申すものは変りません、横丁を曲るときに同伴《つれ》に気の付かないように横目でな、コウいう塩梅しきにじろりとお遣《や》り遊ばしますから、さて不思議に出来あがってるもので、まア近い譬《たと》えが女嫌いと名をとってお在《いで》遊ばす方が、私《わたくし》の参るお屋敷うちにございます、御婦人のお話や少し下《しも》がかったお話になるとフイと其の方のお姿が消えて仕舞うくらいでげすがね、余《あんま》り大きな声では申されませんが、それでね、若い御新造をお貰いあそばし、年子《としご》をつゞけさまにお産し遊ばすから、私もある時御機嫌うかゞいに出て、旦那様は予《かね》て御婦人ぎらいと承わり、女は悪魔だと仰しゃっていらッしゃるそうでげすが、お子様は最《も》うお三方おありなさいますね、と入らざるおせっかいを申しますと、澄したもんで、ナニサ乃公《おれ》は大の女嫌いだよ、併《しか》し嚊《かゝ》アは別ものなんで、何うも恐れ入った御挨拶で、開いた口がふさがらなかったことがございます、ハヽヽヽ、まア斯《こ》うしたもんでげすから、若い美しい御婦人を見て怒《おこ》る方はありますまい。上州屋の帳場でも器量の良《い》いお若さんが伊之助を尋ねて参ったんですから、すこし岡焼の気味でな、番州はじめ見惚《みと》れておりまする。伊之助はお若が尋ねて来ようなんかとは夢にも存じませんけれど、虫が知らしたのかツカ/\と店の方へ参りますと、お若が店さきに立っておりますから驚きましたね、思わず知らず声をかけ、
 伊「オヤお若さんじゃアないかい、何うして出て来なすった、まア此方《こちら》へお這入りなさい」
 若「はい、参ってようございますかね」
 伊「いゝ所《どころ》ですか、誰も心配しなさるものは居やアしません」
 と自身で座敷へ連れてまいりましたが、今夜駈落をしようと約束がしてあるんだから、態々《わざ/\》斯うして来るには何か訳のあることであろう、今朝《あさ》勝五郎に見付けられた一件もあるから、こりゃ晩まで待っていられない事が出来たのだな、と察しましたので、
 伊「何うして来なすったのだ、そして大層そわ/\していなさるようだが、若《も》しや今朝《けさ》のことから」
 と心配らしくお若の顔をのぞきこみまする。左様《そう》なるとお若の方からもジッと伊之助の顔を見詰めまして、ホッと溜息をつき、グッと唾を呑こみまして、
 若「ほんとに大変な事になったの、それだけれど一心でヤッと此処《こゝ》まで逃げて来たんだから、直ぐこれから約束どおり連れて逃げておくれ、若しぐず/\していて見付けられた日にゃア最《も》う今度こそ何うすることも出来なくなるよ」
 伊「エ、大変なことッて」
 と段々きゝますると、朝伊之助に別れたのちの事柄を話す。やアそれはとんでもない、そんなことなら一刻でも斯うしてはいられないと云って、伊之助も慌《あわ》てまどいまして、元より荷物といってはないが、行李の始末なんかは昼間のうちにしてありますから、それではと申して、伊之助は上州屋方を引はらい、お若と二人|立出《たちい》で、車に乗って新橋|停車場《ステーション》へ着きました。調子のわるい時は悪いもので車が停車場に着くと、直ぐ入口の戸はばったり閉められ、急ぎますものですからと外から喚《わめ》きましてもなか/\戸はあけてくれません。そのうち汽笛の声勇ましく八時二十分の汽車は発車しましたから、お若も伊之助も落胆《がっかり》いたし、あゝ馬鹿々々しい、ちょいと開けてくれさえすればあの汽車で神奈川まで一飛《ひとゝび》に往《ゆ》かれるもの、何《なん》ぼ規則があるからッて余《あん》まり酷《ひど》い仕方、場内取締の顔を見るも腹がたって堪らない、そうかと云って打付《ぶっつ》けて愚痴をこぼすことも出来ないので、拠《よんどこ》ろなく次の横浜|行《ゆ》き九時十分まで待たねばなりません、待っているのは仕方がないとしても、若しも其の中《うち》に追手《おって》が掛り、引戻されはしまいかとそれのみが心配で、巡査が此方《こちら》の方へコツリ/\と来るを見ては、両人《ふたり》の様子を怪しく思って尋ねるのではないか、ひょっとお若の頭に気が注《つ》いてそれから駈落の露顕ではないか、とビク/\して彼方《かなた》へ避け此方《こなた》へ除《よ》け、人のなかを潜《くゞ》りあるいても猶気が咎《とが》めるは、此処《こゝ》に集まってまいる人々でございます。知り人でもあって認められては大変とおもえば思うほどに、摺合《すれあ》う人々がじろ/\と見るような気がいたして、何うも一時間をこゝに待っていることが出来ない。すると八時五十五分に赤羽《あかばね》行きの汽車が発車します報鈴《しらせ》がありますから、
 伊「最《も》う十五分経てば横浜ゆきは出ますが、斯うしているうちにね、ひょっと、鳶頭でも追《おっ》かけて来ては仕様がないから、私《わし》はこの汽車で品川まで行《ゆ》こうかと思うんだが」
 若「あゝ、それがいゝよ、こんなにごた/\していては何処《どこ》に知ったものがいないとも限らないから、東京の土地をはやく離れてしまうがいゝわ」
 伊「品川だって矢ッ張東京に違いはないが、こゝほどごた/\は仕ないから、直ぐ乗りかえるんで、厄介は厄介だがね、どうもその方が安心の気がするから左様《そう》しようよ」
 若「また間に合ないといけないから」
 伊「ナニ大丈夫だよ、今度はそんなヘマは組みませんからね」
 と伊之助は札売場に至り、下等二枚を買って参り、お若とゝもに汽車に乗込みましたから、ヤッと胸をなで下《おろ》して人心の付いた気がいたしました。新橋から品川と申せばホンの一丁場煙草一服の処で、巻莨《まきたばこ》めしあがって在《いら》っしゃるお方は一本を吸いきらぬ間《ま》に、品川々々と駅夫の声をきくぐらいでげすから、一瞬間に汽車は着きましたが、丁度伊之助お若が今下車しようと致しますると、火事よ/\という声がいたす、停車場《ステーション》に待合《まちあわ》すものは上を下へと混雑して、まるで芋の子を洗うような大騒ぎでげす。その上品川へ下りるものは吾勝に急ぎまするので、お若と伊之助は到頭はぐれて仕舞いましたんで、お互に気を揉んで捜し合いますが、何をいうにもワア/\という人声が劇《はげ》しいから、さっぱり分らない。
 甲「どこだ/\、火元はどこだ」
 乙「歩行《かち》新宿の裏から出しアがッたんだ、今貸座敷を嘗《なめ》てアがるんだ」
 丙「そりゃ大変、阿魔のとこへ行ってやらなけりゃアならねえ、ヤーイ、ワーイ」
 丁「馬鹿にしてあがらア、手前《てめえ》たちが火事場稼ぎをするんだろう、悪く戯《ふざ》けあがッて」
 丙「こん畜生《ちきしょう》なに云やアがるんでえ、そういう手前《てめえ》こそ胡散《うさん》くせえや」
 丁「なにを、この盗賊《どろぼう》」
 なんかと騒ぎのなか
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