、在宅《うち》か」
伊「おや、さお這入んなさい」
勝「冗談じゃアねえぜ、生空《なまぞら》ア使って、悠々とお前《めえ》此処《こゝ》に坐って居られる義理か」
伊「え、何《なん》で」
勝「何《なに》もねえ、え、おい、本当に己はお前《めえ》のために、何様《どんな》にか面皮《めんぴ》を欠いたか知れやアしねえ、折角己が親切に世話アしてやった結構なお店《たな》を、お嬢さんゆえにしくじって仕まい、其の時お内儀さんが此金《これ》をと云って下すったから、ソックリお前の許《とこ》へ持《もっ》て来てやったら、お前が気の毒がって、以来はモウ横山町の横と云う字にも足は踏かけめえと云って、書付まで出して置きながら、何《なん》で根岸くんだりまで出かけて行《ゆ》くんだよ」
伊「え、誰がお嬢さんに逢ったんです」
勝「とぼけるなイ、お前《めえ》が行ったんじゃアねえか」
伊「まアあなた、そう腹立紛れに、人の言う事ばかり聴いてお出《いで》なすっちゃア困りますナ、まア行ったなら行ったになりましょうが……」
勝「昨夜《ゆうべ》お前《めえ》は、既《すんで》に捕捉《とっつかま》って、ポカリとやられちまう処だッたんだ、以前《もと》はお武家《さむらい》で、剣術《やっとう》の先生だから、処がモウ年を取ってお在《いで》なさるから、忍耐《がまん》をして今朝己を呼びによこしたんだが、何うしたッて己が何《なん》とも言訳がねえじゃアねえか」
伊「マヽ行ったと仰しゃるなら行ったにもなりましょうが、昨夜は何うしても行けませぬ、其の証人は貴方です」
勝「己が……何ういう」
伊「何うだッて、日暮方から来て、川長《かわちょう》へでも行ってお飯《まんま》を喰いに一緒に行《ゆ》けと仰しゃるから、お供をしてお飯を戴き、あれから腕車《くるま》を雇ってガラ/\/\と仲へ行って、山口巴《やまぐちどもえ》のお鹽《しお》の許《とこ》へ上《あが》って、大層お浮れなすって、伊之や/\と仰しゃって少しもお前さんの側を離れず夜通し居た私が、何うして根岸まで行《ゆ》ける訳がないじゃアありませぬか」
勝「ウム、違《ちげ》えねえ、側に居たなア、何を云やアがるんで、耄碌《もうろく》ウしてえるんだ、あん畜生《ちきしょう》、ま師匠腹を立《たっ》ちゃア往《い》けねえヨ、己[#「己」は底本では「已」と誤記]は遂《つ》い慌《あわ》てるもんだから凹《へこ》まされたんだ、己がお前《めえ》に渡す金を取って使ったろうと吐《ぬか》しやアがった、ヘン、憚《はゞか》りながら己だッて五百両や六百両、他人《ひと》の金子《かね》を預かることもあるが、三文だッて手を着けたことはありゃアしねえ、其様《そん》な事は大嫌《でえきれ》えな人間なんだ、ちょいと行って来らア、少し待って居ねえ」
また腕車《くるま》を急がせて根岸のはずれまで引返《ひっかえ》して来た。
勝「ヘイ唯今」
主人「イヤ、大きに御苦労、何うだ伊之助は居たか」
勝「エヽ先生は昨夜《ゆうべ》伊之が此方《こちら》へ来たと仰しゃいますが、昨夜じゃアありますめえ」
主人「ナニ、昨夜|確《たしか》に見たから、今朝貴様の許《とこ》へ人をやったんだ」
勝「ヘエー、昨夜なら何うしても来る訳がねえので」
主人「何故《なぜ》」
勝「何故ったッて、何うも誠に先生の前《めえ》では、些《ちっ》ときまりの悪い話でげすが、実は彼奴《あいつ》を連れて吉原《なか》へ遊びに行ったんでげすから、何うしても此方《こちら》へ来る筈がごぜえませんので」
主人「ウム、それなれば何故、最初己が尋ねた時に爾《そ》う云わぬのじゃ」
勝「ヘイ、何うもそれがあわてちまいましたもんだから、誠に何うも面目次第もない訳で」
主人「吉原《よしわら》へ行ったと云うのか」
勝「ヘイ」
主人「宵から行ったか」
勝「ヘイ」
主人「それじゃア、まだ貴様|欺《だま》されて居るのじゃ、吉原の引《ひけ》と云うのは十二時であろう」
勝「左様、一時から二時ぐらいが大引《おおびけ》なんで」
主人「其の時に貴様を寝こかして置いて、自分は用達《ようたし》に行《ゆ》くとか何《なん》とか云って、スーッと腕車《くるま》に乗って来て夜明まで十分若に逢って帰れるじゃアないか、貴様は伊之助に寝こかしにされたことを知らぬか」
勝「エ、寝こかし、成程、アン畜生《ちきしょう》」
主人「吉原と根岸では道程《みちのり》も僅《わずか》だろう」
勝「左様、何うもあの野郎、太《ふて》え畜生だ、今|直《じき》に腕をおっぺしょって来ます」
又出かけて来た。
勝「師匠、在宅《うち》か」
伊「先刻《さっき》の事は冗談でしたろう」
勝「ナニ冗談も糞もあるもんか、え、おい、お前《めえ》吉原から根岸まで道程は僅だぜ、何《なん》でえ、白《しら》ばっくれやアがって、人を
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