そうに起上って、そっと音せぬように戸を開けて引入れた。男はずっと被《かむ》りし手拭を脱《と》り、小火鉢の向うへ坐した様子を見ると、何うも見覚《みおぼえ》のある菅野《すがの》伊之助らしい。伯父さんは堅い方《かた》だから、直《すぐ》に大刀《だいとう》を揮《ふる》って躍込《おどりこ》み、打斬《うちき》ろうかとは思いましたが、もう六十の坂を越した御老体、前後の御分別がありますから、じっと忍耐《がまん》をして夜明を待ちました。夜が明けると直《すぐ》に塾の書生さんを走らせて鳶頭《かしら》を呼びにやる。何事ならんと勝五郎《かつごろう》は駭《おどろ》いて飛んで来ました。
 勝「ヘイ、誠に御無沙汰を…」
 主人「サ、此方《こっち》へお這入り、久しく逢わなかったが、何時《いつ》も貴公は壮健で宜《よ》いノ」
 勝「ヘイ、先生もお達者で何より結構でがす、何うも存じながら大《おお》御無沙汰をいたしやした」
 主人「まア此方へお出《いで》、何うも忙しい処を妨げて済まぬナ」
 勝「何ういたしまして、能々《よく/\》の御用だろうと思って飛んで来やしたが、お嬢様がお加減でもお悪いのでがすか」
 主人「ヤ、其の事だテ、去年お前が若を駕籠に乗せて連れて来た時、先方から取った書付、彼《あれ》は今だに取ってあるだろうノ、妹の縁家《えんか》堺屋《さかいや》と云う薬店《やくてん》へ出入《でいり》の菅野伊之助と云う一中節《いっちゅうぶし》の師匠と姪《めい》の若が不義をいたし、斯様《かよう》なことが世間へ聞えてはならぬと云うので、大金を出して手を切った、尤《もっと》も其の時お前が仲へ這入ったのだから、何も間違はあるまいけれど、どうか当分若を預かってくれと云う手紙を持って、若同道でお前が来たから、その時|私《わし》が妹の処へ返詞《へんじ》を書いてやったのだ、手前方へ預《あずか》れば石の唐櫃《かろうと》へ入れたも同然と御安心下さるべく候《そろ》と書いてやった」
 勝「ヘイ/\成程」
 主人「何《なん》でも伊之助と手を切る時、お前の扱いで二百両とか三百両とか先方へやったそうだナ」
 勝「エ、左様で、三百両確かにやりました」
 主人「其の伊之助がもしも若の許《もと》へ来て逢引でもする様な事があったら貴様済むまいナ」
 勝「そりゃア何うも先生の前《めえ》でげすが、アヽやってお嬢さんもぶらぶら塩梅《あんべえ》が悪くッてお在《いで》なさるし、何うかお気の紛れるようにと思って、私《わっし》ア身許《みもと》から知ってる堅《かて》え芸人でげすから、私が勧めて堺屋のお店《たな》へ出入《でいり》をするようになると、あんな優しい男だもんだから、皆さんにも可愛《かあい》がられ、お内儀《かみ》さんも飛んだ良い人間だと誉めて居らしったから、お世話|効《がい》があったと思って居ました、処がアヽ云う訳になったもんですから、お内儀さんが、此金《これ》で堺屋の閾《しきい》を跨《また》がせない様にして呉れと仰しゃって、金子《かね》をお出しなすったから、ナニ金子なんざア要りませぬ、私が行《ゆ》くなと云えば上《あが》る気遣いはごぜえませんと云うのに、何《なん》でもと仰しゃるから、金子を請取《うけと》って伊之助に渡し、因果を含めて証文を取り、お嬢さんのお供をしてお宅へ出ましたッ切《きり》で、何うも大きに御無沙汰になってますので」
 主人「ナニ無沙汰の事は何うでも宜《よ》い、が、其の大金を取って横山町《よこやまちょう》の横と云う字にも足は踏掛《ふんが》けまいと誓った伊之助が、若の許へ来て逢引をしては済むまいナ」
 勝「ヘエー、だッて来る訳がねえので」
 主人「処が昨夜《ゆうべ》己《おれ》が確《たしか》に認めた、余り憎い奴だから、一思いに打斬《ぶちき》ろうかと思ったけれど、イヤ/\仲に勝五郎が這入って居るのに、貴様に無断で伊之助を、無暗《むやみ》に己が打《ぶ》つも縛るも出来ぬから、そこで貴様を呼びにやったんだ、だから其処《そこ》で立派に申開《もうしひらき》をしろ」
 勝「ヘエー、それは何うも済まねえ訳で、本当に何うも見損った奴で」
 主人「まア己の方で見ると、貴様は金子《かね》を伊之助にやりはすまい、好《よ》い加減な事を云って金子を取って使っちまったろうと疑られても仕様がないじゃアないか、店《たな》の主人《あるじ》は女の事だから」
 勝「エ、御尤もで、じゃア私《わっし》は是から直《すぐ》に行って参ります、申訳がありませぬから、あの野郎、本当に何うも戯《ふざ》けやアがって、引張って来て横ずっ頬《ぽう》を撲飛《はりと》ばして、屹度《きっと》申訳をいたします」
 其の儘|戸外《おもて》へ飛出して直に腕車《くるま》[#「くるま」は底本では「くまる」と誤記]に乗り、ガラ/\ガラ/\と両国|元柳橋《もとやなぎばし》へ来まして、
 勝「師匠
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