根岸お行の松 因果塚の由来
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂・編纂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大小を帯《さ》して
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)段々|来《きた》って見ると
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)因縁の※[#「※」は「「夕」+「寅」を上下に組み合わせる」、第4水準2−5−29、436−8]《まつ》わる
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)そよ/\
つく/″\(濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」)
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一
昔はお武家が大小を帯《さ》してお歩きなすったものですが、廃刀以来幾星霜を経たる今日に至って、お虫干の時か何かに、刀箪笥から長い刀《やつ》を取出《とりいだ》して、これを兵児帯《へこおび》へ帯して見るが、何《ど》うも腰の骨が痛くッて堪らぬ、昔は能《よ》くこれを帯して歩けたものだと、御自分で駭《おどろ》くと仰しゃった方がありましたが、成程是は左様でござりましょう。なれども昔のお武家は御気象が至って堅い、孔子や孟子の口真似をいたして、頻《しきり》に理窟を並べて居《お》るという、斯《こ》ういう堅人《かたじん》が妹に見込まれて、大事な一人娘を預かった。お宅は下根岸《しもねぎし》[#「しもねぎし」は底本では「しもねがし」と誤記]もズッと末の方で極《ご》く閑静な処、屋敷の周囲《まわり》は矮《ひく》い生垣になって居まして、其の外は田甫《たんぼ》、其の向《むこう》に道灌山《どうかんやま》が見える。折しも弥生《やよい》の桜時、庭前《にわさき》の桜花《おうか》は一円に咲揃い、そよ/\春風の吹く毎《たび》に、一二輪ずつチラリ/\と散《ちっ》て居《お》る処は得も云われざる風情。一ト間の裡《うち》には預けられたお嬢さん、心に想う人があって旦暮《あけくれ》忘れる暇はないけれど、堅い気象の伯父様が頑張って居《い》るから、思うように逢う事も出来ず、唯くよ/\と案じ煩い、……今で言えば肺病でござりますが、其の頃は癆症《ろうしょう》と申しました、寝衣姿《ねまきすがた》で、扱帯《しごき》を乳の辺《あたり》まで固く締めて、縁先まで立出《たちいで》ました途端、プーッと吹込む一陣の風に誘われて、花弁《はなびら》が一輪ヒラ/\/\と舞込みましたのをお嬢さんが、斯う持った……圓朝《わたくし》が此様《こん》な手附をすると、宿無《やどなし》が虱《しらみ》でも取るようで可笑《おかし》いが、お嬢さんは吻《ほっ》と溜息をつき、
娘「アヽ……、何うして伊之《いの》さんは音信《たより》をしてくれぬことか、それにつけてお母様《っかさま》もあんまりな、お雛様を送って下すったのは嬉しいが、私を斯ういう窮屈な家《うち》へ預け、もう生涯|彼《あ》の人に逢えぬことか、あゝ情《なさけ》ない、何うかして今一度逢いたいもの……」
と恨めしげに涙ぐんで、斯う庭の面《おも》を見詰《みつめ》ますと、生垣の外に頬被《ほゝかぶり》をした男が佇《たゝず》んで居《お》る様子、能々《よく/\》透かして見ますると、飽かぬ別れをいたしたる恋人、伊之助《いのすけ》さんではないかと思ったから、高褄《たかづま》をとって庭下駄を履き、飛石伝いに段々|来《きた》って見ると、擬《まご》うかたなき伊之助でござりますから、
娘「おゝ伊之さん能くまア……」
と無理に手を把《と》って、庭内へ引込んだ。余《あんま》り慌てたものだから少し膝頭を摺毀《すりこわ》した。
娘「まア/\此方《こっち》へ」
手を把っておのれの居間へ引入れましたが、余《あんま》り嬉しいので何も言うことが出来ませぬ。伊之助の膝へ手を突いてホロリと泣いたのは真の涙で、去年《こぞ》別れ今年逢う身の嬉しさに先立つものはなみだなりけり。是よりいたして雨の降る夜《よ》も風の夜も、首尾を合図にお若《わか》の計らい、通える数も積りつゝ、今は互《たがい》に棄てかねて、其の情《なか》漆《うるし》膠《にかわ》の如くなり。良しや清水に居《お》るとても、離れまじとの誓いごとは、反故《ほご》にはせまじと現《うつゝ》を抜かして通わせました。伊勢の海|阿漕《あこぎ》ヶ浦に引く網もたび重なればあらわれにけりで、何時《いつ》しか伯父様が気附いた。
伯父「ハテナ、何うしたのだろう、若は脹満《ちょうまん》か知ら」
世間を知らぬ老人は是だからいけませぬ。もうお胤《たね》が留《とま》っては隠すことは出来ない。彼《あれ》は内から膨れて漸々《だん/\》前の方へ糶出《せりだ》して来るから仕様がない。何うも変だ、様子が訝《おか》しいと注意をいたして居ました。すると其の夜《よ》八《や》ツの鐘が鳴るを合図に、トン/\トンと雨戸を叩くものがある。お若は嬉し
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