か/\宿屋なんかへ泊ることは出来ませんでげすから、その心配というものは一通りじゃアないので、何うして宜いか最《も》ううろつく勇気もございませんで、腰掛の隅にジッとして溜息をつきまして、あゝ斯ういう苦労をするも伯父さんの眼を掠《かす》め、道ならぬ道に踏み迷って我儘をした罰《ばち》かも知れない、といよ/\心細くなりますと、我知らず悲しくなって参り、涙がはら/\とこぼれて来ます。そうこう致すうちに切符を売出すので、お若さんは最うぐず/\して居られません、寧《いっ》そ神奈川とやらまで行って、何うしてなりと宿屋へ泊ろうと決心されましたは、実に大奮発なんで、世間知らずのお娘子でこの決心をするというは怖しいものでげす、誰が申し始めましたか存じませぬが曲者とは能く名付けました。怖しいは恋で、世の中に何が怖しいッてこれほど怖《おっか》ないものはございません。神奈川まで参って伊之助を待とうと決心を致されましたお若さんは、切符売場へ参り神奈川一枚と買っておりますと、悄々《しお/\》として遣って参った男がある、目早くも認めましたから、身を交《かわ》そうと致しましたが其の間《ま》がございませんで、
男「オヤお嬢さんじゃげえせんかえ、まア今時分、何処《どこ》へ行らしったんでげすえ」
若「なにね一寸《ちょいと》そこまで」
と然《さ》り気《げ》なく答えはいたしまするものゝ、その慌てゝ居ります様子は直ぐ知れます、そわ/\と致して些《ちっ》とも落著《おちつ》いては居ません。
男「えお嬢さん、お見かけ申せば何うも尋常《なみ》ならぬ御様子でげすが、何処へいらしッたのでげす、今お帰《けえ》りになるんでげすかえ」
若「あゝ今|帰《かえ》るんですよ」
と申しますが神奈川行きの切符を買いましたから、件《くだん》の男はます/\不審になりますものですから、
男「お嬢さん只《たった》お一人で神奈川へ行《いら》っしゃるんでげすね、何うも変で、お嬢さん悪いことは申しません、私《わっし》と一緒にお帰《けえ》りなせえまし、お供いたします、何《ど》んなお急ぎの御用か知れませんが、今から彼方《あっち》へお出でになりますと十二時過でげすよ、そんな夜更に若い貴嬢《あなた》さまお一人で、え、お嬢さん、決して悪いことは申しません、仮令《たとえ》改めてお出懸なさるまでもねえ、一旦はお帰りなせえ、翌朝《あす》になりゃア行らッしゃる先方《さき》まで屹度《きっと》私がお供いたしますから」
若「あゝうるさいねえ、急用があって行《ゆ》くんだから、うっちゃッといておくれよ」
男「ヘヽヽヽ急御用てえのは、大方、ねえ、お嬢さん、神奈川あたりに待ってるものがあるんでしょう、ヘヽヽヽヽ何サうるさがられたッて、フヽヽヽム私《わっし》がお出先きまでお供しましょうよ、根岸の伯父御に頼まれて来たんだから、見届けなきゃア役目がすまねえのさ」
とぐるりと変る調子にお若さんは恟《びっく》りいたし、何うか混雑に紛れてその男をまこうと苦しみますが、生憎《あいにく》夜は更けて居ます事で、待合室にもちらりほらりの人でげす。汽車へ乗込むところにも七八人のものしかいない。お若が如何に逃げてまわりましても、怪しい男は始終影身にそって附いております。先方《さき》へ行《ゆ》き着いてからの心配よりは、只今では此の男をまくことに気を揉んでもなか/\思うように参らない。
品川の停車場《ステーション》でお若が怪しい様子に付けこんで目を放さない気味のわるい男は、下谷坂本あたりを彷徨《うろつ》いております勘太《かんた》という奴。元は大工でげしたが身持が悪いので、親方にもはなれ、仕事をさせてくれるものもない、そうなって参ると猶更に怠《なまけ》るようになって世の中の稼いで暮すと申す活業《なりわい》に逆らってゆくもので、到頭|破落戸《ごろつき》仲間へおち、良くない悪法ばかりやっております。根が胆《きも》ッ玉の太《ふて》え奴でげすから、追々その道の水に染まるにつれまして度胸がすわり、仲間うちでは相応に顔が売れてまいる、坂本の勘太てえば、あの墨染《すみぞめ》勘太かと申すぐらいで。この野郎が墨染という抹香《まっこう》くさい異名《いみょう》をとった訳を申し上げないとお分りになりますまいが、何も深い理窟のあるんではございません、異名だの綽名《あだな》だのと申すものは御存じの通り、その者の身体のうちか、あるいはまた言行のうちに一ヶ所の目安になるものがあって呼ばれるんでげす。勘太ッてえ奴も矢張《やっぱ》りそうなんで、脊中に墨染の文身《ほりもの》をしているからでございます。申すまでもないことでげすが墨染とはお芝居なんぞの中幕によく演《や》るあの関《せき》の扉《と》でげすな、大伴《おおとも》の黒主《くろぬし》が小町桜の精に苦しめらるゝ花やかな幕で、お芝居には至極結構
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