あって認められては大変とおもえば思うほどに、摺合《すれあ》う人々がじろ/\と見るような気がいたして、何うも一時間をこゝに待っていることが出来ない。すると八時五十五分に赤羽《あかばね》行きの汽車が発車します報鈴《しらせ》がありますから、
 伊「最《も》う十五分経てば横浜ゆきは出ますが、斯うしているうちにね、ひょっと、鳶頭でも追《おっ》かけて来ては仕様がないから、私《わし》はこの汽車で品川まで行《ゆ》こうかと思うんだが」
 若「あゝ、それがいゝよ、こんなにごた/\していては何処《どこ》に知ったものがいないとも限らないから、東京の土地をはやく離れてしまうがいゝわ」
 伊「品川だって矢ッ張東京に違いはないが、こゝほどごた/\は仕ないから、直ぐ乗りかえるんで、厄介は厄介だがね、どうもその方が安心の気がするから左様《そう》しようよ」
 若「また間に合ないといけないから」
 伊「ナニ大丈夫だよ、今度はそんなヘマは組みませんからね」
 と伊之助は札売場に至り、下等二枚を買って参り、お若とゝもに汽車に乗込みましたから、ヤッと胸をなで下《おろ》して人心の付いた気がいたしました。新橋から品川と申せばホンの一丁場煙草一服の処で、巻莨《まきたばこ》めしあがって在《いら》っしゃるお方は一本を吸いきらぬ間《ま》に、品川々々と駅夫の声をきくぐらいでげすから、一瞬間に汽車は着きましたが、丁度伊之助お若が今下車しようと致しますると、火事よ/\という声がいたす、停車場《ステーション》に待合《まちあわ》すものは上を下へと混雑して、まるで芋の子を洗うような大騒ぎでげす。その上品川へ下りるものは吾勝に急ぎまするので、お若と伊之助は到頭はぐれて仕舞いましたんで、お互に気を揉んで捜し合いますが、何をいうにもワア/\という人声が劇《はげ》しいから、さっぱり分らない。
 甲「どこだ/\、火元はどこだ」
 乙「歩行《かち》新宿の裏から出しアがッたんだ、今貸座敷を嘗《なめ》てアがるんだ」
 丙「そりゃ大変、阿魔のとこへ行ってやらなけりゃアならねえ、ヤーイ、ワーイ」
 丁「馬鹿にしてあがらア、手前《てめえ》たちが火事場稼ぎをするんだろう、悪く戯《ふざ》けあがッて」
 丙「こん畜生《ちきしょう》なに云やアがるんでえ、そういう手前《てめえ》こそ胡散《うさん》くせえや」
 丁「なにを、この盗賊《どろぼう》」
 なんかと騒ぎのなかで喧嘩が始まり、一層にごった返して、子供や老人《としより》は踏《ふみ》つぶされるやら、突飛《つきとば》さるゝやら、イヤもう大変の騒動でございます。その中でお若さんは彼方《あちら》へもまれ此方《こちら》へ押されいたしまして、
 若「伊之さんや、伊之助さんや」
 と声を嗄《から》して見得も外聞もかまわず呼んでおりますが些《ちっ》とも知れない。此の大騒ぎのうちに横浜ゆきの汽車は通りすぎ、火事も幸いにボヤで済みましたから、四辺《あたり》も鎮まってまいり、漸《ようよ》う停車場内も静《しずか》になりましたけれども、伊之助は何うしましたか姿が見えません。お若さんは、停車場の外へ出たり内へ這入ったりして頻《しき》りと探していなさるが何うしても居ないので、進退きわまりましたね。今さら帰るには帰られもしないし、また神奈川在とのみにて行先《ゆきさ》きも判然ときいて置かなかったし、何うして好《いゝ》かとうろ/\して居りますと、新橋発十時の汽車はまた汽笛をならして通り越して仕舞う。余り停車場内をうろつくので駅夫等は訝《おか》しくおもって注意する様子は見える。若《も》し巡査にでもこの素振を認められ尋ねられた時には何《なん》と答えたら宜《よ》かろうか知らん、それに最《も》う一度あとに発車があるばかりで、あゝ何うしようか、伊之助さんは何処《どこ》へ往《ゆ》きなすったのか知らん、中途で厭《いや》になり先刻《さっき》の騒ぎを幸いに捨られたのじゃアあるまいか、イヤ/\あの人はそんな薄情な気はない、矢ッ張り騒ぎに紛れて私を見失い、今でも屹度《きっと》さがしていなさるだろう、それにしては此処《こゝ》らにいなさらねばならぬ筈だに……こりゃ神奈川まで行って待っていなさるんだろうか、私が行先《ゆくさき》も知らないことは能く呑込んでいるんだから、まさか自分ばかり先《さ》きへ行《ゆ》くことはあるまい、と心配しぬいておりまするが、時計はさっさと廻って最《も》う十一時に近くなる。今十五分すれば新橋から発車するのだが、この汽車が最終のもので、これに乗らねば翌朝《よくあさ》まで待たなくッてはならぬ、それも伊之助と一緒に乗後《のりおく》れるのなら、別段心配する事もございません、品川には宿屋もございますことでげすから、泊る分のことゝ安心がしていられるが、何を云うにもお若さん一人でげすし、それに世間なれている蓮ッ葉ものと違って、な
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