無事で、身体を大切《だいじ》に稼ぎなさい、これが別れとなるかも知れぬ、併《しか》し無事に航海を了《おわ》って帰朝するときは、お前も何時までも斯うして勤めさせては置かぬからな、当《あて》にはならぬことだがせめては楽しみに待っていてくれ、男子の一言帰朝さえすれば屹度身請してやる」
と言葉残して芳野が吐《は》く一条《ひとすじ》の黒煙《くろけむり》をおき土産に品川を出帆されました。此方《こなた》の花里でございます。元々好いた男というでもなし、たゞ聞ながしに致して居りましたが、海上の方では一旦約束した言葉、反故《ほご》にしては男子の一分《いちぶん》たゝずと、大きに肩をお入れ遊ばして、芳野艦が恙《つゝが》なく帰朝し、先ず横須賀湾に碇泊《ていはく》になりますと直ぐ休暇をとって品川へお繰出しとなり、和国楼へおいでになって、身請の下談《したばな》しが始まりましたんで、花里は恟《びっく》りいたして一度二度は体《てい》よく瞞《ごま》かしておき、斯うなっては最《も》う振ってふって振りぬいて、先から愛憎《あいそ》をつかさせるより手段《てだて》はないと、それからというものお座敷へは出るが腹が痛むの頭痛がするのと、我儘ばかり云っても海上は身請まで為《し》ようという熱心でございますから、花里が嫌《いや》でふるとは思われませんで、これも我には心易《こゝろやす》だての我儘と自惚《うぬぼれ》が嵩《こう》じていましたから、情人《おとこ》の為に嫌われると気の注《つ》きませんで持ったもの。先ず一心に凝《こ》っていらっしゃるときは誰方《どなた》でも斯ういう塩梅なものでございましょう。いやがッて居ればその客が余計に来るもので、海上は頻《しき》りと登楼いたし、花里には延《のべ》たらに昼夜の揚代《ぎょく》がついておりますから、座敷へ入れないことは出来ぬ、まるで我《わが》部屋は貸し切りにしたような始末で、まことに都合がわるい。伊之吉が来ても何時も名代部屋で帰して仕舞わねばならぬ。訳は知っている、無理な事は云わないが、さて心の中《うち》では面白くないもので。偶《たま》には訝《おつ》に癪《しゃく》ることがあるを花里は酷《ひど》く辛く思って欝《ふさ》ぐ上にも猶ふさぐ。左様《そう》されると元々自分に真実つくしている女の心配するんですから、気の毒になって機嫌の一つも取ってやるようになる。平常《ふだん》ならそれなりに嫣然《にっこり》して他愛なくなるんですが、此の頃は優しくされるにつけて一層悲しさが増してまいり、溜息ついて苦労するのが伊之吉の身にも犇々《ひし/\》と堪《こた》えます。さア左様なるといよ/\情は濃くなって何うにも斯うにも仕ようがなくなる。今夜も伊之吉が来たが、例の通り座敷は塞《ふさ》げられている。尤《もっと》もまだ海上は来ていないが、晩には屹度来るからって約束して行ったから座敷は明けておかないじゃアすまぬ。
花「ねえ、伊之さん、私ゃ、何うしたら宜かろう、本当《ほんと》に困っちまアわ」
伊「いゝじゃねえか、海上さんてえのは海軍の少尉だって」
花「まだ少尉にゃア成らないのさ、候補生とやらで航海して来たんだから、今度少尉になるんだとさ」
伊「それじゃア少尉もおなじことよ、お前《めえ》も欲のねえ女じゃねえか、ハイと云って請出《うけだ》されて見ねえな、立派な奥様と言われてよ、小女ぐれえ使って楽にしていかれるに」
花「またそんな事を云って、私に心配させて笑っているのかい、何うしてお前さんは情がないのだろう、私が真身《しんみ》になって相談すれば茶かして仕舞って」
伊「ナニ茶かすんじゃアねえが、其の方がお前《めえ》の為だろうと思ってよ」
花「なんかというと為だ/\と瞞《ごま》かして、お前さんが女房にしてやると云ったのは、ありゃ私をだましたんだね、もういゝわ、そんな水臭い」
とツンと致しますが、眼には早や涙ぐんで居りますから、伊之吉も黙ってはいられない。
伊「これさ、また怒《おこ》るのか、己《おい》らが言ったことが気にさわったら堪忍しなせえ、何も悪気でいったことじゃアねえんだ、己らだッて斯様《こんな》わけになってるお前《めえ》を海上に渡して仕舞うのはいゝ心持じゃねえが、これも時節だ、仕方がねえというものよ」
花「それじゃアお前さんは何うあっても切れるてえのだね」
伊「切れたくアねえが、切角《せっかく》お前《めえ》が身儘になるのを己らが為に身請をうんと云わねえじゃア、お部屋へ済まなかろうじゃねえか己らが、お前を身請するだけの力がありゃア、一も二もねえ、海上の鼻をあかしてひけらかして見せるが」
とホッと溜息をつきまするも全く花里の身を思ってくれるからの真実でございます。斯うシンミリとした話になって参ると猶さらに悲しくなるもので、花里ももう堪らなくなりましたんで、伊之吉の膝にワ
前へ
次へ
全40ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三遊亭 円朝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング