したのが明治二年の五月でございます。まだ其の頃は圓朝師も芝居掛り大道具というので、所謂《いわゆる》落語と申しましては一夜限り或《あるい》は二日続きぐらいのもの、其の内で永く続きましたのが新皿屋敷《しんさらやしき》、下谷義賊《したやぎぞく》の隠家《かくれが》、かさねヶ淵《ふち》の三種などでございます。それより素話《すばなし》になりましてからは沢《さわ》の紫《むらさき》(粟田口《あわだぐち》)に次《つい》では此の業平文治でございます。その新作の都度《つど》私《わたくし》どもにも多少相談もありましたが、その作意の力には毎度ながら敬服して居ります。師匠は皆様が御存じの通り、業平文治は前篇だけしか世に公《おおやけ》にいたしませぬが、その当時|私《わたくし》は後《のち》の文治の筋々を親しく小耳に挟《はさ》んで居りました。即《すなわ》ち本篇が師匠の遺稿にかゝる後の業平文治でございまする。さて師匠存生中府下の各|寄席《よせ》で演じ、または雑誌にて御存じの業平文治は、安永の頃|下谷《したや》御成街道《おなりかいどう》の角に堀丹波守《ほりたんばのかみ》殿家来、三百八十石|浪島文吾《なみしまぶんご》という者
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