」
亥「そんな事を知らねえで済みますものか、ねえ、いろ/\お前《めえ》さんのお骨折《ほねおり》で助かったこたア蔭ながら……なア國藏、お礼を申さねえ日は無《ね》えなア」
喜「それほど文治殿の助かった事を喜びながら、その文治殿に恥を掻かせる積りかな、それとも殺す気かな」
亥「こりゃア妙な事を仰しゃいますねえ、旦那を殺すの恥を掻かせるのとは何《なん》のことでござんす、此方《こち》とらア自分の命を棄てゝも旦那を助ける覚悟だ、又一旦思い込んだ事《こた》ア一寸《いっすん》も後《あと》へ退《ひ》かねえ此の亥太郎でござんすぜ」
喜「然《しか》らばお前さん方は其の恩人の文治殿を、明日《みょうにち》の遠島船《えんとうぶね》の出帆の場に切込み、同人を助け出して上州《じょうしゅう》あたりへ隠そうという積りでござろうな、それとも違いましたかね、何《ど》うでござりますな、さア其の文治殿は悪人でござるか、乃至《ないし》泥坊《どろぼう》でござるか」
亥「えッ旦那、妙なことを仰しゃいますね、誰が悪人と申しやした、泥坊なんぞ為《す》るような旦那で無《ね》えと云うことは誰でも知ってるじゃアござんせぬか」
喜「さア其処《そこ》です、文治殿こそは日本《にっぽん》に二三とあるまじき天晴《あっぱれ》名士と心得ますが、何《ど》うでござるな、その日本名士が上州あたりの長脇差や泥坊が、御法度《ごはっと》を犯して隠れている汚《よご》れた国へまいりますか、よもや文治殿はそんな拙《つたな》い者ではありますまい、よしまた往《ゆ》くとしても、生涯|山中《さんちゅう》に隠れ潜《ひそ》んで、埋木《うもれぎ》同然に世を送るような人物とは些《ち》と肌が違いましょうぞ、左程逃げたき文治殿ならば、友之助が無実の罪に服したのを幸いに、のめ/\と宅《たく》に居て知らぬ顔をしていましょう、友之助を助けようが為に自分の一命を差出して明白に上《かみ》のお裁きを仰ぐくらいの名士、そんな端《はし》たない者ではござりませんな」
と云われて亥太郎と國藏は眼ばかりパチ/\やって居ります。
十二
藤原喜代之助は尚《なお》も言葉を継いで、
「こゝで文治殿が一度逃出せば、生涯悪人の汚名を負わなければ成らぬ、そんなむずかしい事を云っても分りますまいが、天網恢々《てんもうかい/\》疎《そ》にして洩らさず、其の内に再び召捕《めしと》られたら、いよ/\国中《こくちゅう》へ恥を曝《さら》さなければ成りますまい、只今お町殿へ明日《あす》のことを申上げ、お別れに只《たっ》た一目お逢いなされてはと申入れましたが、文治殿の平常《ふだん》の気象を御存じゆえ、此の場合未練がましく別れにまいったら、定めし叱られましょう、お目に懸りたいは山々なれども、じッと堪《こら》えてまいりますまいと、流石《さすが》は文治殿の御家内だけ……女ですら斯様《かよう》でありますのに、あなた方は只文治殿の事のみを思い、お心得違いをなさいましたなア、さア分りましたらお止《とゞま》りなさい、如何《いかゞ》でござるな」
これを聞きました両人は頭を下げ、只|男泣《おとこなき》に歯ぎしりして口もきかれませぬ。
喜「まだ御合点《ごがてん》なさいませんか」
両人「それじゃア旦那にお目にかゝる事は出来ませぬか」
喜「いゝえ、何《ど》うしてあなた方も明日《あした》は是非お見送りを願います、まさか私《わたくし》は役人でござるから、よし義の為にもせよ、一旦罪人と極《きま》って遠島申付けられた者に逢うことは出来ませぬ、是非ともあなた方はお出で下すって、私の申した事を文治殿へ宜しく申伝《もうしつた》えて下さい」
両「よく分りました、じゃア仰せに従って諦めましょう、けれども御新造様も私《わっち》どもと一緒に、お別れに只《たっ》た一目お逢いなせえまし、此の世の名残《なご》りに往《い》かっしゃるのに、何《なん》ぼ御気象の勝《すぐ》れた旦那だって、人情を知らねえ事アありますめえ、何《なん》とも仰しゃる気遣《きづかい》はありゃアしませんや、ねえ旦那」
喜「如何《いか》にも……就《つい》てはお町殿、せめて遠目でなりとも」
町「万年橋とやら申す橋より船までは余程離れて居りますか」
國「へえ、僅《わず》か半丁ばかりしか離れて居りません」
町「それでは其の橋の上から旦那の心付かぬように、余所《よそ》ながらお別れいたしましょう」
喜「成程、それが宜《よろ》しゅうござろう、各々《おの/\》文治殿には見知られぬよう気を付けてやって下さい」
両「承知いたしました」
お話分れて、本所大橋向うの万年橋、正木稲荷《まさきいなり》の河岸《かし》は、流罪人《るざいにん》の乗船《のりふね》を扱いまする場所でござります。尤《もっと》も遠島と申しますのは八丈島、三宅島《みやけじま》にて、其
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