nめの内は心付きませぬが、
 町「はて是れは、熊が私の脊に取付けというのか知らん」
 と恐々《こわ/″\》熊の脊中を撫でて見ますと、いかにも温順《おとな》しくジッとして居りますから、思い切って熊の脊中へ確《しっ》かり取付き、一生懸命神々を念じながら目を瞑《ねむ》って居りますと、件《くだん》の熊は一飛びで穴の入口へ飛上りました。お町はホッと一息、四辺《あたり》を見れば谷間々々に少しずつ花が咲いて居ります。始めて蘇生《そせい》の思いをなして、
 町「あゝ辱《かたじ》けない、夢ではないか、それとも今までのが夢であったか知らん」
 と心を定めて四辺を見廻しますと、後《うしろ》の方に例の熊がジッと守って居りまする。
 町「まだお前は私を守護してくれるのか、人と見たら囓付《かみつ》くべき猛獣が、私の命を助けるとは此の上の恩誼《おんぎ》はない、辱けない/\、さア熊よ、お前はもう宜《よ》いから早く元の穴へお戻り、うか/\して居《お》ると猟人《かりゅうど》のために撃たれるぞよ、必ず/\お前の恩誼は忘れませぬ、早くお帰りなさい」
 と熊の頭《かしら》を撫で/\、「さア/\」と熊を後《うしろ》に向けて促しますと、のそり/\歩き出しましたから、其の後姿を見送り、手を合せて、
 町「あゝ有難い、辱けない」
 と熊の影の見えなくなるまで暫く休みまして、又々一丁程登って後《うしろ》を見ますと、横に熊が来て居ります。
 町「えゝ、まだお前は安心せぬか、此処《こゝ》まで来れば大丈夫じゃ、何《ど》うぞ帰って下さいよ」
 と頭を撫でて居りますと、
 猟「やア女郎《めろう》、脇へ寄れ、その熊を撃つのだ、早く/\」
 と声掛けられてお町は恟《びっく》り驚き、
 町「なゝゝゝなゝ何《なん》と仰しゃいます、この熊をお撃ちなさると、そりゃアまア惨《むご》たらしい」
 と熊の惣身《そうしん》に抱付きました。此の体《てい》を見るより猟人《かりゅうど》は益々|大音《だいおん》に、
 「汝《われ》え其処《そこ》退《の》かねえか、そんな真似をして居《お》ると共に打放《ぶっぱな》すぞ」
 町「いゝえ、この熊は私が命の恩人でございます、何《ど》うぞ助けて下さいませ、今頃熊をお取りなさいましても、左程のお徳にもなりますまい、どうぞ/\助けて下さい」
 と熊の前に立塞《たちふさ》がり、両手を合せて拝んで居りまする。

  三十二

 一人の猟人《かりゅうど》は他《ほか》の猟人に向いまして、
 甲「おい、あの女め、熊に抱付いたぞ、ありゃア只者《たゞもの》じゃアあるめえ、魔法使か化物だろう、いっそ人ぐるみ撃殺してしまおうじゃアねえか」
 と鉄砲を向けますと、
 乙「これ/\人間を撃つと又名主殿へ呼付けられて酷《ひど》い目に遇《あ》うぞ、まア待て/\」
 甲「それもそうだな、やい女郎《めろう》め、其の熊ア汝《われ》え縛って引いて来いやア」
 乙「おい/\そんな無理な事を云うなってば……女郎に熊ア連れて来られるもんか、何か仔細があるに違《ちげ》えねえだ、汝《わりゃ》ア此処《こゝ》に只鉄砲を向けて見張っているが宜《よ》い、己《おら》ア名主殿へ往って話して来《く》べえ」
 甲「そんなら早く往って来いよ、これ女郎、その熊ア逃がすと汝《われ》え撃つぞ」
 と暫く山と山、谷を隔《へだ》てゝ睨《にら》み合って居りました。
 町「それ見なさい、お前は今更逃げる事も出来ない、あの猟人が万一お前を撃つならば、私も共に命を棄てましょう、必ず/\お前ばかり撃たせはせぬ、世にまします神々よ、たとい獣類なればとて、命を助けし大恩あるもの何《ど》うぞ助けて給われかし」
 と熊の傍《そば》に寄り添いまして、
 町「さア穴の方へ往《ゆ》けよ、さア/\」
 と追いやる如く引立つれば、熊は頷《うなず》く様子にてお町の顔を一度見て、一散走《いっさんばし》りに谷間の方へ駈け出します。
 町「それ撃たれなよ」
 と云う間《ま》もあらばこそ、一発ズドンと打放《うちはな》しました。お町は熊を見返りまして、
 町「やれ撃たれしか」
 と云う間にまた一発放ちました。さてお話変って、文治の漂い着きました無人島は、佐渡を離れること南へ何百里でございますか、島の大きさも確《しか》とは分りませぬが、白鳥、鸚鵡《おうむ》、阿呆鳥などいう種々《しゅ/″\》の鳥が沢山居ります。文治は尋ねあぐみて殆《ほとん》ど気絶の体《てい》でございましたが、暫くして我に返り、
 文「あゝ天|何故《なにゆえ》に我を斯《か》くまで懲らしめ給うか、身に悪事をなしたる覚えなきに、如何《いか》なれば斯く我を苦しめ給うぞ、世にある時は人を助け、人のために人を懲《こら》しもし、また彼《あ》の友之助を助けるために蟠龍軒の屋敷へ踏入り、悪事加担の奴ばらを切殺したりとは云いながら、これ私慾のためな
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