A眼に遮《さえぎ》るは草木ばかりで人家のあるべき様《よう》もござりませぬ。
文「さては愈々《いよ/\》話に聞いていた無人島か」
と力なく樹を降り、根《こん》尽きて其の儘|其処《そこ》へ気絶いたしました。お話分れて、此方《こちら》は信州二居ヶ峰、中ノ峰の谷間《たにあい》の熊の穴に落ちましたお町が成行《なりゆき》でございます。前に申上げました通り、お町は隅の方に小さくなって居りますと、穴の外へ飛出した親熊が帰って、我子《わがこ》の寝て居ります側に蹲《うずく》まって居ります様子、お町は薄気味悪く、熊の正面に向いまして、人間に物いうように、
町「これお前、先刻《さっき》も申す通り私は決して悪人ではない、賊の為に災難に逢《お》うて逃げる機《はずみ》に此の穴へ落ちた者、其の時お前が追掛《おっか》けて出た彼《あ》の二人の者こそ泥坊じゃぞえ、私は仔細あって夫と共に此の山へ来かゝりしに、山賊共に欺《だま》されての此の災難、今頃夫は何処《いずこ》へまいられしか、定めし所々方々《しょ/\ほう/″\》とお尋ねであろう、どうぞ夫に逢うまでは不憫《ふびん》と思って助けて下さいよ」
と後《あと》へ退《さが》って小さくなって居りますと、件《くだん》の親熊はのそり/\とお町の前へまいりました。
町「さては是ほど頼んでも聞分けなく、私に噛付く了簡か、そんなら斯《こ》うよ」
と懐剣に手を掛けながらも、心の中《うち》に業平天神を祈り、どうぞ夫に逢うまではお町の一命をお助け下さいますようと、油断なく熊を見詰めて居りますと、熊は何やらお町の前へ持って来まして、又元の通り子の寝ている処へ帰りました。お町も少しは安心いたしましたが、さりとて眠ることもならず、其の儘にして居《お》ること一日二日、いよ/\熊も囓付《かみつ》く様子がありませんので大分気も落着きました。さア腹が減って堪《たま》りませぬ、ふと心付いて見ると、毎日熊が持って来ましたのは胡桃《くるみ》の実やら榧《かや》の実やら、乃至《ないし》芋のような物であります。
三十一
お町は余り腹が空《す》きましたから、前に積んである胡桃を取上げましたが、さア割ることが出来ませぬ、懐剣を出して割ろうかとも思いましたが、いや/\熊が見て自分を殺すと思い違い、万一の怪我でもあっては成らぬと気遣《きづか》いまして、歯に掛けて見ますけれども頓《とん》と割れませぬ、二つ持ってカチ/\叩いて居りますると、熊はむっくり起き上って、のそり/\とお町の前へまいりまして、その胡桃を取ろうとする様子でありますから、お町は震え上って、思わず持っていた胡桃を投出しました。熊は一向騒ぐ気色もなく、静かに其の胡桃を取上げて二つ三つ口へ入れましたが、忽《たちま》ちぽり/\と二つに割って、それを両手に乗せてお町の前に出しました。さては私に食べろということかと、そっと一つ取りまして熊の顔を見ながら食べました。又二つ三つと其の通りにして食べますると、熊も安心の様子にて我子の側にころりと寝転んで、児《こ》に乳を呑まして居ります。お町は漸《ようや》く胸を撫でおろして、
町「この猛獣までが私を助けてくれるか、あゝ有難い、これと云うのも日頃念ずる神様が此の熊に乗り移って我身を守護して下さるのでありましょう、此の上ともに首尾|好《よ》く穴を脱《ぬ》け出《い》で、夫文治殿に逢わして下さいますよう祈り奉ります」
と一心不乱に祈りまして、
町「どうしたら此の穴を出ることが出来るか知らぬ」
と足掛りのする処へ足を掛けて立上っては見ますが、前にも申す如く此の穴は熊が自身に掘ったのでなく、天然の穴を用いたので有りまして、さながら井戸の如き切立《きった》て、深さも二三丈はありまして、其の穴からまた横に掘ったのでございます。熊は慣れて居りますから自由に出入《でいり》いたしますが、人間|殊《こと》に女子《じょし》の身では熊のように自在に飛上ったり飛下りたりする事が出来ませぬ。居《お》るともなしに此の穴の中で余程の日数《ひかず》を費《ついや》しました。熊は折々雪の塊《かたまり》を持って来ては児にも食《は》ませ、自分にも喰い、またお町の前へも持ってまいります。ところが段々その雪も解けて失《なくな》る時分になりますと、穴の隅からたら/\と清水が垂れてまいります。さア然《そ》うなると一日々々とだん/″\寒くなってまいりまして、もう穴の中に居耐《いたゝま》らぬ位になりました。獣類とは申しながら熊は誠に感心なもので、清水が滴《したゝ》るようになったので、熊の児を穴の途中まで出しました様子、お町の心配は何程か知れませぬ。さては神様が我身を見殺しにする思召《おぼしめし》か、情ないと思って居りますと、親熊が頻《しき》りにお町の前へ来て、後向《うしろむき》に脊中を出して居ります。お町も
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